ドボ鉄053肥薩線と大畑駅

絵はがき:肥薩線・大畑駅(熊本県)


●鹿児島への鉄路
 鹿児島県への鉄道の歴史は、1909 (明治42)年11月に全通した現在の肥薩線にさかのぼることができる。八代から球磨川を遡上し、大畑(おこば)でループ線とスイッチバックを併用して、さらに延長2,096mの矢岳第一トンネルを貫き、吉松、隼人を経て鹿児島湾に沿って鹿児島へと至るルートは、急勾配が連続する山岳路線として知られ、輸送力に限界があった。
 このため、八代から天草灘にそって南下し、出水、川内を経由して鹿児島へ至る新ルートを建設することとなり、鹿児島~川内間を川内線として工事を進め、1914 (大正3)年に全通した。さらに、川内~八代間は、肥薩線として工事を進め、1927(昭和2)年5月に全通した。これによって、八代~鹿児島間の海岸ルートが鹿児島本線となり、人吉を経由していた山線は肥薩線と改称した。
 「肥薩線全通記念」として1927(昭和2)年10月17日に鉄道省が発行した絵葉書には、鹿児島線(現在の肥薩線)と開業した肥薩線(現在の鹿児島本線)の線路縦断面図が比較されたが、水平距離では海岸沿いの新ルートがわずかに長いものの、これによって海抜500mを越えるための急勾配区間が解消されたことが理解できる。
 鹿児島本線八代~鹿児島間は、2004(平成16)年の九州新幹線鹿児島ルートの部分開業によって、八代~川内間が第三セクターの肥薩おれんじ鉄道へ移管され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2011年9月号掲載)
 
●ループ線とスイッチバックの駅
 鹿児島本線の八代を起点として人吉、吉松を経由して隼人で日豊本線に接続する延長123.2kmの肥薩線は、鹿児島へ至る最初の鉄道として1899(明治32)年に着工し、1909(明治42)年に全通した。その後、八代から水俣、出水、川内を経て鹿児島へ至る海岸沿いのルートが1927(昭和2)年に全通して鹿児島本線となったため、人吉経由の山線は肥薩線と改称し、現在に至っている。
 肥薩線は、その名の通り「肥後」と「薩摩」を結ぶ路線であったが、サミットとなる県境の矢岳駅付近は標高537mに達する難所で、人吉~矢岳~吉松間は25‰(最大30.3‰)の急勾配が連続した。このため、八代方の大畑駅と隼人方の真幸(まさき)駅にはスイッチバックが設けられたほか、人吉~大畑間にはループ線が併設された。
 「肥薩大畑駅ループ式線」と題した絵葉書には、向かって左側にループ線の一部が写り、右側には大畑駅の構内とスイッチバックの分岐器などが写っている。写真中央に建つ石碑は、肥薩線の工事で殉職した人々を弔った慰霊碑で、1908(明治41)年に間組によって建立された。スイッチバックやループ線は、急勾配を克服するために各地でも用いられたが、両者を組み合わせたのは肥薩線の大畑駅が全国で唯一の存在であった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2016年4月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

スイッチバックやループ線は、ほかにもあるんですか?

A

スイッチバックは同じ肥薩線の真幸駅にもあり、篠ノ井線や土讃線(四国インフラ解剖018回参照)など全国の山岳路線にいくつかあります。ループ線は、上越線の清水トンネル付近や北陸本線の新疋田付近、土佐くろしお鉄道中村線にあります。(小野田滋)


”肥薩線(熊本県)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

肥薩線は2020(令和2)年7月の集中豪雨で大きな被害を受けましたね。

師匠

ああ、球磨川に架かっていたアメリカ製のトラス橋も流されるほどだから、深刻だ。

小鉄

ドボ鉄の第16回で紹介したトラス橋ですね。

師匠

このタイプのトランケートトラスは、もう日本ではここしか残っていないから、ショックだな。

小鉄

ドボ鉄第16回の写真を見ると、相当高い場所に架かっていますが、ここまで水位が上昇したってことですか。

師匠

そういうことになるな。特に下流の球磨川第一橋梁は蛇行した狭窄部に架かっていたからひとたまりもなかった。

小鉄

復旧には、だいぶ時間がかかりそうですね。

師匠

橋梁だけではなく、路盤もあちこちで流出してしまったから、復旧は容易ではなさそうだぞ。

小鉄

鉄道遺産の宝庫だから、ぜひ復活してほしいですね。

師匠

観光列車の「しんぺい」号に乗って、もう一度、日本三大車窓の霧島連山とえびの高原を楽しんでみたいな。

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