四国インフラ048 肱川

「水」の<大動脈>が運んでいたもの


肱川は、流域の大部分が山地で占められているにも関わらず、河床勾配はゆるやかで、その水量は豊富である。そのため愛媛県内における最も重要な物資を輸送する<血管>のひとつとして機能していた。

明治から大正にかけて肱川には大小あわせて40あまりの川湊が開かれ、それらの港には200艘以上の川舟が置かれていた。主な川湊には貨物運送問屋や貨物連絡所があり、各地の物品はそこで集荷され、船積みされた。とりわけ大洲は肱川最大の物流拠点として栄え、さまざまな商店のほか、旅館や料理店など立地し、大いに賑わった。

さらに輸出の主幹品目として生糸が脚光を浴びるようになると、喜多郡(現大洲市周辺)長の下井小太郎は田畑を桑田に転換する政策を強力に推し進め、養蚕・製糸を奨励した。桑の木は水害に強い上、度重なる氾濫によって沃土に恵まれた大洲の土地は桑栽培に適していたことから肱川流域の養蚕農家は次第に増えていった。これにともない大洲のまちなかには、製糸工場も次々とでき、ついには愛媛県内最大の製糸市場となった。肱川が運ぶ沃土から桑を生産、蚕を育て、川舟によって繭を市街地へと運び、さらには加工する。大洲は「水」の<大動脈>を最大限利用することで急速に近代化していった。

しかし、大正2(1913)年の肱川橋の架橋、さらに大正9(1920)年の松山と卯之町・宇和島を結ぶ県道の整備をはじめとした現在の道路交通網―「陸」の<大動脈>―が次第に整えられてゆくにつれて、肱川がもつ「水」の<大動脈>としての機能は次第に「陸」の<大動脈>の妨げと目されるようになってしまった。

とはいえ、その見方も現在みなおされつつある。肱川の「水」の<大動脈>を利用して財を成した商人は肱川沿いに立派な蔵や、豪華な建具を用いた家屋を競うように建てた。そうした街並を生かし、近年新たなまちづくり活動が胎動している。かつて川舟に積まれていたのは物品だけでなく、未来のまちづくりの糧だったとは言いすぎだろうか。(白柳)

 

 

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参考文献

矢ヶ崎善太郎監修:水郷の数寄屋臥龍山荘,愛媛県大洲市,2012.

種別 河川
所在地 大洲市 西予市 伊予市 内子町 砥部町
規模 長さ103km 流域面積1210km2
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