四国インフラ077 丸亀城・丸亀港

西讃岐の<右脳><左脳>


丸亀城は、讃岐一国を治めていた生駒親正が西讃岐支配のために慶長2(1597)年から5年をかけて築城したものの、一国一城令により廃城となった。その後、讃岐は二分され、寛永20(1643)年より山崎家治が西讃の拠点として再建に着手。現在の石垣のほとんどが山崎時代につくられたと考えられている。標高66mの自然の岩山である亀山を利用し、それを取り囲むよう四方に巡らされた3段の石垣は「扇の勾配」と言われ、高さ20mを超える。丸亀の<左脳>を守る美しく力強い大石垣だ。

江戸後期になると、金比羅参り熱の上昇と共に多くの金比羅船、大坂や岡山方面からの定期船が丸亀に押し寄せた。当時は庶民の旅行が禁じられていたが、寺社への参拝はその限りでなかったため、金比羅参りもまた庶民の憧れであったのだ。文化3(1806)年、丸亀藩は参詣客の増加に伴い西汐入川の河口に福島湛浦(現在のフェリーターミナル整備の際に埋立てられた港)を、天保4(1833)年には入江を挟んだ対岸に新堀湛浦(現在、新堀と呼ばれる港)を整備。浜辺には船宿や蔵が建ち並び、貸座敷、仕出屋、うどん屋、そしてそれぞれに遊郭を持つにぎやかな界隈であった。かつての丸亀の<左脳>が城なら、<右脳>は港であったと言えよう。

近代以降は塩田開発や臨海工業用地の造成、大型船舶施設の整備が進み、港はどんどん海へ向かって拡張していった。江戸時代、夜間の入船のために建てられた常夜灯が今も1基残っている。新堀の西端に立ち、全高約6.6m、1,400名以上の寄進者の中で最高額を寄進した大坂商人、塩原太助の名を取り「太助灯篭」と呼ばれている。夜の海に浮かぶ灯籠の灯りと浜辺の町のにぎやかさは、丸亀の繁栄ぶりを映し出していたことだろう。(板東)

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参考文献

井上正夫:古地図で歩く香川の歴史~さぬきで 息ぬき~高松城下に遊び、二十四の瞳の世界をさまよう,同成社,2008.
丸亀市観光協会編:いにしえのときを刻む 丸亀城,丸亀市観光協会,2013.
草創の会編:金比羅参詣道 讃岐の街道,草創の会,2006.

種別 都市・エリア
所在地 香川県丸亀市
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