四国インフラ058 大街道・銀天街

今も昔も変わらぬ盛り場


松山の中心部は、戦災で多くの建物が焼けてしまったため、古い建築物はほとんど残っていないが、かつて松山藩が形成した城下町の武家屋敷街と商人街の地割りや道筋は今も残り、当時の面影を感じることができる。武家屋敷街の跡地は、官公庁や企業が集積するエリアとなり、都市の情報処理を担う中枢部分で<左脳>的であり、一方のかつての商人街は、数多くの飲食店が集積し、盛り場となって<右脳>的に都市の感性を育んでいる。
大街道が明治の頃から賑やかな商人の町であったことは、次の句からも窺える。

 

「掛乞の大街道となりにけり」(正岡子規)

「これも「大街道」といふのは大きな街道といふ意味ではなく、松山にある町の名前である。松山の南北に通じてをる比較的広い町であって、それを大街道と称へてゐた。(中略)その町はふだん店が両側に連なってゐて、物売りなども沢山通るし、往来の人も沢山あるが、大晦日の暮れともなれば、掛乞(掛売りの代金の集金人)の通るのが特に目立って見えるといふ句である。その時分の年の暮れの感じも出てゐる。」(高浜虚子『子規句解』)

この<右脳>と<左脳>の間には、国道11号を入口とする全長483メートルの「大街道商店街」が南北に通り、商店街の南端から西へと全長約600メートルの「銀天街商店街」に接続し、巨大商店街が良くも悪くも外部からの刺激を敏感に受け取り、松山という街の印象を形づくっている。この巨大商店街の歴史は古く、商店街南部の湊町では、松山藩時代には呉服商が多くみられ、正岡子規と夏目漱石が見物した芝居小屋「新栄座」をはじめとする娯楽施設が点在した。また、かつての商店街南部と銀天街商店街とが交差する湊町は、魚屋や惣菜店などが並び、「魚の棚(うおのたな)」と呼ばれる庶民の市場としての役割を果たしていた。このように、大街道・銀天街の2つの商店街とその周辺地域は、時代とともに流行に敏感に反応しながら発展し、今もなお、賑わいの中心として松山の成長をつかさどっている。(片岡)

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