四国インフラ009 吉野川

阿波の<骨格>大変身


利根川の坂東太郎、筑後川の筑後次郎と並び、吉野川が四国三郎の名を持つ暴れ川であったことを知る人は多い。では今、吉野川が流れているところに、かつて別の川が流れていたことはご存知だろうか。

江戸時代から明治中期にかけての吉野川は、第十村(現・名西郡石井町藍畑)から北へ流れ、途中で分流し、鳴門付近で紀伊水道へ流れ込んでいた。現在、旧吉野川と呼ばれている川のことである。当時の技術では制御できない程の氾濫を繰り返していたため、大河でありながら用水が引けず、周辺の村では稲作がおこなえなかった。その反面、毎年のようにおこる氾濫はその都度、上流から肥沃な土を運び、藍の栽培に適した砂質土の平野を形成。一帯は阿波藍の主産地となった。藍は糸や布を染める染料の素であり、藍で染めることを藍染めという。江戸時代、日本各地で藍染めはおこなわれていたが、徳島でつくられた藍(阿波藍)はその品質の良さから人気が高く、当時の藍市場を席巻したともいわれている。また、最も下流に位置し、吉野川と分流の今切川に囲まれた地域は、川の水量が多いため海水が逆流せず、この水の恵みのもとで徳島藩内有数の穀倉地帯として発展。一方、第十から東には別宮川と呼ばれる別の川が流れていた。

寛文12(1672)年、徳島藩が舟運の便を図るために吉野川と別宮川を最短でつなげる新川堀抜工事をおこなったところ、新川は次第に両岸を削って掘り広がり、水量の大部分を別宮川に導いてしまった。沿岸の村々の大地は削り取られ、田畑は水没と共に消え去った。下流の穀倉地帯では河川水量の減少に伴い海水が逆流、水田には塩害が発生。農民たちは生活の糧を失う結果となった。

宝暦2(1752)年、藩は農民からの嘆願を受けて新川堰き止め工事に着手。第十堰の前身の堰が完成した。明治後期から始まった吉野川第一期改修工事では、第十以下の本流を締め切るための第十樋門や、別宮川の川筋を改良し本流とするための連続堤防が整備された。そして昭和7(1932)年、別宮川を「吉野川」、第十樋門地点から流れ込んでいた吉野川を「旧吉野川」と正式に改めた。今日見る阿波の<骨格>は、大きく変身を遂げた姿なのだ。(板東)

(赤色立体地図:アジア航測株式会社 国土地理院承認番号 平28情使第1285号 / 航空写真:Google Earth)

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参考文献

建設省四国地方建設局徳島工事事務所編:吉野川百年史,建設省四国地方建設局徳島工事事務所,1993.
四国の建設のあゆみ編纂委員会編:四国の建設のあゆみ,四国建設弘済会,1990.
石川松太郎編著:ふるさとの人と知恵 徳島,農山漁村文化協会,1996.

種別 河川
所在地 高知県吾川郡いの町~土佐郡大川村~土佐郡土佐町~長岡郡本山町~長岡郡大豊町~徳島県三好市~三好郡東みよし町~美馬郡つるぎ町~美馬市~吉野川市~阿波市~板野郡上板町~名西郡石井町~板野郡藍住町~徳島市
規模 長さ194km 流域面積3750k㎡
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