ドボ鉄109牛の寝ているような橋

絵はがき:東海道本線・六郷川橋梁(東京都大田区/川崎市幸区)


 鋼橋は、トラス(構桁)とプレートガーダ(鈑桁)に大別されるが、その中間的な橋梁形式として、鈑構桁が考案された。1914(大正3)年、東京駅の開業にあたって電車線(山手・京浜線)と列車線(東海道本線)の分離運転が開始されたが、蒲田~川崎間に架かる六郷川橋梁は、これに先立つ1912(明治45)年に複線並列の橋梁に架替えられた。
 架替え前の六郷川橋梁の主径間には、1877(明治10)年にイギリスで製造された支間100フィート(約30m)の複線ポニーワーレントラスが架かっていたが(ドボ鉄96回参照)、鉄道院技師として鉄道国有化後の橋梁の標準設計に携わっていた太田圓三(1881~1926)によって、新たに複線下路の「鈑構桁」が設計された。鈑構桁は、桁端をプレートガーダ、中央部をトラスとした両者の中間的な橋梁形式で、鋼材重量は増加したものの、標準設計ではないユニークな外観の橋梁を実現した。
 伝聞では、恩師の東京帝国大学土木工学科教授の廣井勇(1862~1928)に「牛の寝ているような橋」と酷評されて太田は落胆したとされるが、別の記録では「非常によくできた橋」と高く評価していたともいわれる。また、その後も鈑構桁は普及せず、南満洲鉄道の橋梁でいくつか試みられた程度にとどまった。
 太田はのちに関東大震災の復興事業を行うために創設された帝都復興院に出向し、工務部長として震災復興橋梁の設計に携わって、さまざまな橋梁形式を実現するので、その原点が六郷川橋梁にあったといえる。新たな橋梁技術に挑戦し続ける姿勢は、太田の没後も田中豊(1888~1964)など次の世代の橋梁技術者へと継承された。
ちなみに、太田が手がけた三代目の六郷川橋梁は、1969(昭和44)年~1972(昭和47)年に現在の橋梁に架替えられた。その晩年の姿は、映画『大いなる驀進』(関川秀雄監督/1960・東映東京)の冒頭で寝台特急「さくら」の通過シーンとして登場し、当時の塗色が鳶色であったことを示している。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年1月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

太田圓三はどんな技術者ですか? 

A

太田圓三は、1881(明治14)年3月10日に現在の伊東市で生まれました。東京帝国大学工科大学土木工学科を1904(明治37)年に卒業して逓信省鉄道作業局に入り、建設部監査掛となりました。1907(明治40)年の帝国鉄道庁設置によって建設部技術課動務となり、鉄道国有化後の橋梁の標準設計と取り組みました。1910(明治43)年に欧米各国に派遣され、1914(大正3)年5月には新設された建設局工事課長となりました。1923(大正12)年の関東大震災後に設置された帝都復興院(のち復興局)に出向して工務部長として帝都復興事業にあたり、隅田川の六大橋をはじめとする震災復興橋梁群の設計に指導的役割を果たしました。しかし、復興局疑獄事件と呼ばれる贈収賄事件が発生したため、その心労で神経衰弱に陥って1926(大正15)年3月21日に45歳で逝去しました。太田の死は関係者に衝撃を与え、「帝都復興の尊い人柱」として多くの人々から悼まれ、1931(昭和6)年に深川相生橋中の島公園に顕彰碑が建立されました。詩人の木下杢太郎は実弟で、「永代橋工事」と題した詩の末尾には「永代の新橋は亡兄の心血を餞(そそ)ぎ設計せるものにてありけるなり」と書き添え、亡き兄を偲びました(碑は1955(昭和30)年に神田橋河畔(千代田区神田錦町―丁目)に移設)。(小野田滋)


”東海道本線・六郷川橋梁(東京都大田区/川崎市幸区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

ドボ鉄96回に続いて、六郷川橋梁の再登場ですね。

師匠

本線に架かる橋だから、機関車の大型化にあわせて1912(明治45)年に架け替えが必要になった。

小鉄

たしかに、ドボ鉄96回と比べると、蒸気機関車がずいぶん大きいですね。

師匠

機関車は8850形で、1911(明治44)年にプロイセン王国(のちドイツ)のボルジッヒ社製で12両が輸入された。

小鉄

絵葉書の切手に消印が押してありますけど、昔の消印はこんなに大きかったんですか?

師匠

ああ、これは東京駅の開業記念スタンプだ。

小鉄

英語で何か書いてありますよ。

師匠

「COMMEMORATION OF OPENING OF TOKIO RAILWAY STATION-1914(東京停車場開業記念1914年)」と書いてあって、日付も東京駅の開業式の1914(大正3)年12月18日付になっている。

小鉄

東京駅と六郷川橋梁はずいぶん離れていますけど、何か関係あるんですか?

師匠

六郷川橋梁の絵葉書をよく見るとヒントがある。

小鉄

……。

師匠

ドボ鉄96回の絵葉書と比較すると、橋梁以外にも違っているところがあるぞ。

小鉄

あっ。新しい橋は、線路が複々線になっていますよ。

師匠

もう1枚の絵葉書にもヒントがあるぞ。

小鉄

あっ。左側の線路には架線があるから、電化されていますね。

師匠

やっと気がついたか。左側の2線が東京・横浜間で運転を開始した京浜線電車の線路で、右側の2線が東海道本線の線路だ。

小鉄

でも、それがなんで東京駅と関係あるんですか?

師匠

京浜電車は、東京駅と同時に開業した。

小鉄

六郷川橋梁を日本人が設計し、立派な東京駅が完成して、日本の鉄道もようやく一人前になったってことですね。

師匠

だが、橋そのものはまだアメリカ製だ。

小鉄

機関車や橋梁の製造はまだ日本では難しかったんですね。

師匠

しかし、機関車も橋梁もこの頃に国産の標準設計が完成するから、これから日本の鉄道が飛躍する時代を象徴する絵葉書でもあるな。

絵はがき橋脚基礎補強工事
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