ドボ鉄113天竜峡を跨いだトラス

絵はがき:飯田線・天竜川橋梁(長野県飯田市)


 愛知県、静岡県、長野県の3県を跨ぐ山岳地域は、旧国名を合わせて「三遠南信」地方と呼ばれ、豊橋と辰野の延長195.7kmを結ぶ飯田線は、中央構造線沿いの急峻な地形をたどりながら敷設されている。飯田線は、1943(昭和18)年に豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道の私鉄4社を国有化して誕生した路線で、中でも三河川合~天竜峡間を結んだ三信鉄道はトンネルと橋梁が連続し、俗に「山の地下鉄」と呼ばれた(ドボ鉄第19回参照)。
 1932(昭和7)年に開業した三信鉄道の最初の開通区間である門島~天竜峡間のうち千代~天竜峡間には天竜川橋梁が架設され、「天龍峡勝景」と題した絵葉書には天竜峡観光の記念スタンプとともにその姿がおさめられた。天竜峡は、1912(大正元)年9月に行われた明治天皇大葬の際に、イギリス国王の名代として来日したコンノート殿下が川下りを行なったことがあり、全国的にも有名になって海外でも知られていた。
 主径間に写る上路ワーレントラスは、支間205フィート(62.5m)、主構中心間隔は17フィート(5.2m)、主構高さ32フィート(9.75m)という諸元であった。1935(昭和10)年にはその約7.5km下流(飯田線門島駅付近)に矢作水力によって泰阜(やすおか)ダムが完成したが、土砂の堆積量が異常に多く、完成から10年に満たない1944(昭和19)年の堆砂率は95.6%にも達した。その影響で天竜川橋梁付近の河床も約6m上昇し、洪水時にはたびたび流水に晒されるようになり、1945(昭和20)年10月4日の水害では最高水位が下弦材上約4.4mに達する事態となった。
 このため、トラスの主構高さを3分の1以下に低く改造することとなり、1948(昭和23)年に名古屋鉄道局によって改造工事が行われた。施工は、列車運転を確保しながら行われ、上弦材の位置をそのままとして主構高さを3.3mとし、中央に橋脚を新設して現在の2径間連続トラスに改造された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年6月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

橋の改造はよく行われるんですか?

A

部材の一部を追加して補強することはありますが、別の形式の橋に改造してしまうことはほとんどありません。橋の形は、橋に作用する力を考えて無駄なく設計されているので、むやみに部材を切断したり改造してしまうと力のバランスを崩して機能を維持できなくなります。天竜川橋梁の改造工事も、部材の撤去、交換、新設の順序を慎重に検討しながら進められました。(小野田滋)


”飯田線・天竜川橋梁(長野県飯田市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

イギリスのコンノート殿下が川下りしたそうですが、三信鉄道はまだ開通していない頃にどうやって天竜峡まで来たんですか?

師匠

話は少し長くなるが、新聞記事などでは1912(大正元)年9月19日21時半頃の夜行列車で東京を出発したらしいが、出発したのは新宿、新橋、飯田町の諸説がある。

小鉄

どこも可能性がありそうですね。

師匠

辰野に翌朝(20日)の8時56分に着いて大歓迎を受け、さらに南信自動車で飯田に14時頃に着いたが、伊那町(現在の伊那市)まで伊那電気鉄道を利用したという説もある。

小鉄

どういうことですか?

師匠

当時、伊那電気鉄道は第一期線の辰野~伊那町間が開業していた。コンノート殿下は10時半に伊那電気鉄道で伊那町に着いて、ここで南信自動車に乗継いだとする記録もある。

小鉄

いずれにしても、何とか飯田までは着いたんですね。

師匠

飯田でも大歓迎を受けて、その夜は蕉梧堂(しょうごどう)という旅館に泊まった。

小鉄

前夜は夜行列車だったから、お疲れだったでしょうね。

師匠

翌朝(21日)はいよいよ川下りだ。川下りの船は鵜飼船を3艘新造したとされる。

小鉄

1人旅じゃないから、従者や警備の人たちも乗ったんでしょうね。

師匠

旅館から時又の船着場まで自動車で移動して、7時10分に時又の船着場を離れ、あちこちの景勝地を訪ねながら静岡県の二俣にある鹿島の船着場まで船で下った。

小鉄

飯田から二俣までずいぶん距離がありますよ。

師匠

記録では「三十余里」とか「四十里」とあるから120km~160kmくらいかな。着いたのは18時頃とされるから約11時間におよぶ船旅だ。

小鉄

小さな鵜飼船に揺られながらの11時間は大変ですね。

師匠

当時の天竜川にはまだダムがひとつも無かったから、一気に下ることができた。

小鉄

それからどうされたんですか?

師匠

大日本軌道浜松支社の特別列車で浜松に20時頃に着いて駅前の大米屋旅館に泊まったそうだ。特別列車は3両の客車を貴賓車に改造して、万一に備えて前後に蒸気機関車を連結したとされる。

小鉄

大日本軌道浜松支社?

師匠

今の遠州鉄道のことだ。翌朝(22日)には10時12分発の東海道本線の列車で彦根へ向かい、さらに京都の桃山御陵へ参拝した。

小鉄

ハードスケジュールですね。

師匠

川下りでは、難所で下船して陸地を徒歩で迂回することを進言したそうだが、殿下は「進め、進め」と号令して意に介さなかったと伝えられる。

小鉄

誰の発案だったんですか?

師匠

当時のイギリスの駐日大使がすでに天竜峡下りを経験していたらしく、コンノート殿下をぜひ案内したいということで実現したという話が伝わっている。

小鉄

「Youは何しに?」の元祖みたいな話ですね。

師匠

東海道本線で上洛すれば1日で済んだだろうが、あえて中央本線を経由して天竜川を下るというのは冒険好きなイギリス人らしい発想だな。

工事報告1工事報告2橋梁諸元
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