川展 日本河川風景二十区分 ―国分かれて山河似る―

川展 番外編: 河川の科学―令和元年台風19号での治水対策について― Part1

今年もまた台風のシーズンを迎えています。 昨年、令和元年10月に発生した台風19号は日本列島を縦断し各地に大きな爪あとを残しました。首都圏を流れる日本一の大河川、利根川でも当時河川の水位が高まり、大規模な氾濫が発生する危険がありました。今年も7月に梅雨前線の停滞により九州をはじめ日本各地で大きな被害が発生しています。

今回は川展の番外編として、河川の災害と治水対策について、利根川上流河川事務所所長(当時)の三橋さんにお話ししていただきました。

Part1: 利根川を例に「治水」を見ると

(1) 氾濫とは?

三橋さゆり 河川管理者
水害について理解するためには、治水システムの基本を知っておく必要があります。そこでまずは、利根川をはじめとする川の治水の話をします。

三橋さゆり 河川管理者
氾濫には、外水氾濫と、内水氾濫の二種類があります。外水氾濫は、川の堤防から溢れて浸水すること、内水氾濫は、川に排水しきれないものが溢れることを意味します。外水氾濫には治水、内水氾濫には下水道整備を対策として行います。

知花武佳 河川研究者
中央大学の鈴木隆介先生によれば、地理分野では、仮に台地の上であっても、窪地でへこんでいる所に水が集まって池になれば内水と定義するそうです。

三橋さゆり 河川管理者
現象としてはそうかもしれませんが、国では、河川法により管理する河川か、それ以外の河川かという、行政的な区別で便宜上分けることが多いですね。下水路や農業用水は河川法で定義する川ではないので、そこから水が溢れた場合には内水氾濫としています。

知花武佳 河川研究者
判断基準が明確ですね。では中小河川である支川が大河川に合流するところで、バックウォーター現象がおきて支川が溢れた場合には、内水氾濫と外水氾濫のどちらに当たりますか?

三橋さゆり 河川管理者
もし溢れた支川が河川法上の河川に指定されていたら外水氾濫、用水路などと指定されていたら内水氾濫になります。

大村拓也 土木な写真家
僕の印象では、堤防の有無が外水と内水の違いだと思っていました。堤防の外側が外水、内側が内水と考えていました。

三橋さゆり 河川管理者
その考え方で大体合っています。河川法で川と判断されていない水路には堤防がないですから。ただし河川法の河川でも堤防がない掘りこみ形式もあります。

(2) 治水の基本

三橋さゆり 河川管理者
今回は、治水の基本的な考え方と手法、利根川におけるその実践について紹介します。

三橋さゆり 河川管理者
まず治水には、築堤、堤防を動かして川幅を拡げる引提(ひきてい)、川底をさらって土砂を取り除く浚渫、放水路、ダム、遊水地、調節池、排水機場など、様々な手法があります。これらのうちどれか一つではなく、合わせ技で行うのが治水の基本です。

三橋さゆり 河川管理者
ダムがあるから堤防がいらないとか、堤防があるからダムはいらないと思われるかもしれませんが、どれもそれぞれ特徴があり、機能が異なります。そのため、合わせ技を主として氾濫が起こらないよう最適な組み合わせを考えます。また、仮に氾濫が起きても最小限のダメージで済むように工夫しています。

北河大次郎 ドボ博館長
リスクマネージメントですね。

三橋さゆり 河川管理者
そして川ごとに、河川法に基づく「河川整備基本方針」によって目標を設定しています。これが治水の基本的な考え方です。

(3) ポイントその1「流域」

1)  日本で一番流域面積の大きい川 利根川

三橋さゆり 河川管理者
では、利根川を例に、どのような治水が行われているか見ていきます。

三橋さゆり 河川管理者
利根川の流域は白い線で囲った部分で、流域面積は全国一位で、16,840km2です。北海道に次ぐ面積を誇る岩手県より1割大きいくらいですね。治水対策をする上で、この流域面積の広さが重要なポイントになります。川だけでなく、流域の広がりを地形と併せて見ること、流域全体を見ることが、治水の基本です。

三橋さゆり 河川管理者
流域が大きければ大きいほど、広範囲に雨が降ったときに集まる雨量が多いですし、雨が降っていないエリアでも上流に降った雨により水位があがるといった現象が起こります。流域が広い川は、こうした点に注意が必要です。

2) 利根川東遷と荒川西遷

三橋さゆり 河川管理者
そして流域を考える時、歴史的変遷を押さえておくことも大切です。利根川流域の場合、利根川の流れを東に移し、荒川の流れを西に移した歴史です。

今尾恵介 地図研究家
利根川東遷と荒川西遷ですね。

 

 

三橋さゆり 河川管理者
左側の図が、徳川家康の江戸入府前の河川ライン、右側の図が、利根川と荒川を動かした後のラインを示しています。東遷によって、利根川が銚子の方まで伸びました。そこまで川を掘ったとよく勘違いされますが、そうではありません。元々銚子の方に伸びていた別の川がありました。赤線のところを少し掘ると、利根川は常陸川に繋がります。荒川も久下という所で少し掘って和田吉野川につなげて、入間川に入っていって今の荒川になっていきます。

北河大次郎 ドボ博館長
もともと東京湾に注いでいた川の束を、東西に分離したわけですね。

三橋さゆり 河川管理者
これが利根川の治水上、今でもすごく重要なポイントです。なぜなら、いくら利根川の流れを変えても、元々の地形は変えられないからです。昔利根川や荒川が流れていた所が、今も谷筋として残っている。これが利根川最大の難点です。更に関東平野は、関東造盆地運動で埼玉県東部(図では春日部から加須の付近)がへこんでいます。つまり川の中流部が低くなっています。

三橋さゆり 河川管理者
利根川は上流から流れてきて、八ツ場ダムがある吾妻川や、烏・神流川、渡良瀬川を併せて流れ合流するあたりから低いです。この辺で主要な川はみんな入ってきてしまいます。

三橋さゆり 河川管理者
普通のイメージの川は、下流へ行くにつれてだんだん支川が合流して水の量が増えていくのが通常ですが、利根川の場合は、下流に行く前に中流部で大きな支川が合流して水量がMAXになってしまいます。かつ、なまじ東遷してしまったせいで、そこから河口までが非常に長い。栗橋から河口の銚子まで約130kmあります。

安藤達也 ドボ博事務局/建設コンサルタント
東遷することで川が長くなって、勾配が緩くなったわけですね。

三橋さゆり 河川管理者
そうです。そのため大量に雨が降ってしまった場合、大量に溜まった降水を、その長い距離安全に流さなくてはいけません。栗橋で標高13メートルくらいなので、河口までの平均勾配は約1/10,000です。10キロ進んで1メートル下がるくらいですね。そのわずかな勾配で、大量の水を流すなんて、とんでもないですよね。難儀な川です。

三橋さゆり 河川管理者
このような川が首都圏を囲むように流れていますから、そして今でも昔の谷筋は都心に向かっていますからら、リスクが大きいのです。

3) 明治期の利根川治水

三橋さゆり 河川管理者
これが明治初めの利根川の堤防の状況です。

三橋さゆり 河川管理者
当時の堤防のあった所をオレンジ色で示しています。これは明治初期の地図なので、江戸時代に造られた堤防だと思いますが、当時の治水は水系管理とは言い難く、自分の所をどう守るかという観点で、輪中や非連続の堤防が、断続的に作られています。

三橋さゆり 河川管理者
利根川でよく知られているのが中条提です。これは霞提で上流側が無堤部です。この下流にあたる南側に、水攻めで有名な忍城があります。この松平家の城を守っています。利根川に大雨が降った場合には、この中条堤の上流で氾濫させて、下流を守っていました。要するにこれが、近代化する前の治水の秩序だったわけで、おそらく全国どこでもこのような感じだったと思われます。

(4) ポイントその2「目標設定」

三橋さゆり 河川管理者
そして明治43年(1910年)に大洪水が起こります。地球の裏側では、同じ年、パリで大洪水が起きています。パリは1月、日本では夏に起こりました。さっき見た中条堤はこの洪水を防ぎきれず、溢れた水が東京の方まで流れてしまいました。

三橋さゆり 河川管理者
江戸の幕藩政治では治水の秩序がある程度保たれていましたが、議会制民主主義の大日本帝国議会が明治27年に始まっていて、地方からの議員も出てくる中で、「私のところも守ってくれ」という声を無視できなくなってきました。

三橋さゆり 河川管理者
そうすると、誰かが犠牲になって誰かが助かるという合意形成は、なかなか難しくなります。そこで、近代治水へのパラダイムシフトが出てきます。江戸時代のような場当たり的な治水ではなく、川全体で目標を決めて治水を行うということです。

三橋さゆり 河川管理者
これは、明治44年の改修計画図です。前年の洪水を受けて作られました。図の丸印のところに数字が書かれているように、川全体で何m3/s、各支川で何m3/sをあふれさせずに流すかを決めます。

三橋さゆり 河川管理者
これが近代治水です。付け加えると、近代治水を可能にしたのは、お雇い外国人によるところが大きいです。彼らが日本に測量技術をもたらし、水位や流量の観測が可能になりました。川の上流から下流まで観測して初めて水系一貫の管理が可能になるわけです。

(5) ポイントその3「氾濫させない」

1) 世紀の大土工、利根川改修

三橋さゆり 河川管理者
更に、この計画でもう一つ重要なのが、さきほどの中条堤上流の締切です。中条堤については、その存続について上流側と下流側とで長い間激しい争いが続いていましたが、明治43年の洪水を契機に中条堤上流の無堤部を閉める決断がなされました。

三橋さゆり 河川管理者
つまり、連続堤防によって氾濫をおさえる近代治水へと転換していったわけです。そして、この明治44年の改修計画を基に「世紀の大土工」と呼ばれる利根川の改修が始まります。

三橋さゆり 河川管理者
写真のようにトロッコを使ったり、堤防の上に線路を引いて機関車で運んだ土砂を上から落として、人が叩いて固めたり。そして工事は、昭和5年に終了します。その後も昭和13年などに洪水がありました。改修計画の内容も改訂されますが、戦争が近づいて事業が進まなくなりました。そして終戦を迎えます。。

2) カスリーン台風

三橋さゆり 河川管理者
そこに来たのがカスリーン台風です。

三橋さゆり 河川管理者
左が進路で、右が雨量の分布です。特徴的なのは、あまり台風が強くないことです。最接近時で975hPa、上陸はしていません。ただ、この台風の前に前線が停滞していて、豪雨が続いていました。カスリーン台風自体はさほど強くなかったのですが。速度が遅いため雨の降っている時間が長く、利根川流域全体に降る状態が3日間続いてたいへんな流量になりました。それによって利根川右岸側の埼玉県加須市の堤防が決壊し、破堤しました。

 

三橋さゆり 河川管理者
5日間かけて、1日目:加須市、2日目:春日部市、3日目:越谷市、4日目:足立区、5日目:江戸川区というように浸水が広がっていきました。映画『シン・ゴジラ』で、ゴジラが鎌倉に現れて、じわじわと東京に向かって行った先々で人がわーっと逃げていましたよね。おそらくそのような感じで、数日間かけてたくさんの人が逃げたと思います。

大村拓也 土木な写真家
5日目に浸水が到達したのはどの辺りですか?

三橋さゆり 河川管理者
江戸川区です。最後は川に落ちて東京湾に抜けています。

大村拓也 土木な写真家
そこが東京湾なんですね。

三橋さゆり 河川管理者
はい。埋め立てする前です。洪水がまさに東京の中心まで来ています。実は荒川も破堤していたので、全体としては利根川の氾濫流と元荒川に入った荒川の氾濫流が一緒に合流しながら来ています。

知花武佳 河川研究者
以前たまたま春日部のすぐ南にある松伏町で講演する機会があって、松伏町の町史を読んだら、三橋さんが言うとおり、台風の動きが遅いんですよね。当時はテレビがないので、職場に行ったら「洪水は大丈夫だったか」と同僚に聞かれ、何かと思ったら「堤防が壊れているぞ」と言われて、帰ってみたら家が浸水していたという話があったようです。水防団もなんとか止めようと思って利根川へ行ったそうですね。

三橋さゆり 河川管理者
止められそうな所がいくつかあったんですよね。

知花武佳 河川研究者
そうですね。利根川へ行ったんだけれども、あの水の勢いは止められないと途中で帰ってきたようです。

三橋さゆり 河川管理者
昔は、輪中やいろいろな堤防があったので、上流からの氾濫流はどこかに溜まりつつ、また溢れてどこかに溜まって、という感じかもしれません。そうすると、走れば何とか逃げられますね。

知花武佳 河川研究者
記述を見ていると、遅いと言っている割には、「渦巻いたのがやってくる」とも書いてあったから激流もあったようです。でも、様子を見に行って帰ってきたという記述もあるので、あまり早くないときもあったようですね。

三橋さゆり 河川管理者
おそらくストッパーがどこかにあったんでしょうね。昔はあちこちに小規模な築堤をしていますから、それのお陰で水の速度が落ちていたんですね。今はしっかり利根川に堤防を作って、この辺は何もなくてまっ平らじゃないですか。だから当時とは全然違うと思います。

三橋さゆり 河川管理者
地形的に見るとこんな感じです。決壊地点から東京湾まで一番低い所を通っていて、距離が60キロほどあります。そこを5日間かけて流れているわけです。

3)「合わせ技」の改修計画

三橋さゆり 河川管理者
そして、カスリーン台風の後で利根川の計画は再び事業改定をしました。目標とする流量も増えます。ここでの特徴として、先ほど少し説明した治水の基本である「合わせ技」が全面に出てきます。

三橋さゆり 河川管理者
ダムを作りましょう、渡良瀬遊水地を調節池化しましょう、下流三調節池を作りましょう、というようにいろいろな合わせ技の治水計画へと変わっていくのが戦後の治水です。

知花武佳 河川研究者
渡良瀬遊水地は、この時まだ調節池になってないですか?

三橋さゆり 河川管理者
調節池化するのはカスリーンの後です。

知花武佳 河川研究者
足尾銅山鉱毒事件の時は?

三橋さゆり 河川管理者
その時はまず遊水地を作りました。それが明治の終わりごろの話ですから、カスリーンの前から遊水地はありました。

知花武佳 河川研究者
ここでいう調節池化というのは、囲繞堤(いぎょうてい)を作ったということですか?

三橋さゆり 河川管理者
そうです。調節池化して、よりピークカットをするような改修をしました。

磯部祥行 編集者
遊水地と調整池の違いですね。

三橋さゆり 河川管理者
遊水地は、単に川の周りにお盆のように広がっている状態です。そして、川の水が溢れればじわっと遊水地に広がっていきます。ただ、そうしたやり方は効率が悪いんですね。治水というのは、水位のピークをいかにカットするかが重要です。

三橋さゆり 河川管理者
遊水地だと、じわっと広がってピークカットする前に水がいっぱいになってしまいます。それを阻止するために、お盆の中に器(堤防)を作って、川の水が上がってきたらそこを越流して周りのお盆に入ってくる、という風にすると、最初はお盆の中に水が入ってこないわけです。そして一番ピークの時に水が上手く入ってくれて、ピークがカットできます。それが調節池の役割です。これを調節池化と言います。

 

(6) ポイントその4「最適な組み合わせ」

1) 堤防の位置をずらして川幅を広げる引堤

三橋さゆり 河川管理者
さて昭和24年の改定計画では、ダム建設、渡良瀬遊水地の調節池化など、組み合わせで治水を行っていきます。まずは、川によりたくさん流せるような対策を施します。例えば引堤を行って川幅を広げたり、堤防を高く、厚くすることなどです。

三橋さゆり 河川管理者
利根川では五大引堤といって、引堤を大々的に行いました。これらの事業によって、当初の堤防位置と現在とでは全く場所が変わっています。

三橋さゆり 河川管理者
川辺村の写真があります。写真手前が下流で、橋梁が東武日光線です。写真左側が東京方面ですね。ここでは堤防が100メートルくらい移動しています。利根川では、東武日光線の橋梁が一番古い橋梁です。今でも写真と同じ橋梁が架かっていますが、引堤のため、日光方面の橋梁を増築しています。ぜひ日光に行くときはそう思って見てみてください。

知花武佳 河川研究者
写真でみて川の右の部分と左の部分で橋の形がどうして違うんですか?

三橋さゆり 河川管理者
川の左側が河川敷だからスパンが短いということだと思います。

知花武佳 河川研究者
なるほど。川の低水路の部分だけ橋梁のスパンが広くて、端の高水敷は橋梁のスパンが狭くなっているのは、渡良瀬川にも似ている所がありますよね。

小野田滋 元国鉄職員の人@豊川
鉄道の線路を通すときに一番川幅の狭い所を狙って通ったのかもしれませんね。

三橋さゆり 河川管理者
そうですね。それにしても、昔はこんな川だったんだなと思いますね。

2)  堤防拡幅について

三橋さゆり 河川管理者
「川により多く流す」ために築堤も行っています。

三橋さゆり 河川管理者
断面図を見ると、江戸時代からある堤防(青い部分)の上に世紀の大土工の築堤(黄色い部分)があり、昭和14年の築堤があり、カスリーン台風の後の築堤があり、昭和、平成の築堤と、だんだん盛っていることがわかります。堤防の断面の写真もあります。2017年に水門を作っている箇所で、堤防を一度全てさらったときの写真です。

三橋さゆり 河川管理者
写真にグリッド線を引いて、土質と築堤経緯を調べました。写真右側の「旧堤」という文字の上あたりの堤防が一番古いです。上から砂を下ろして、それから均していますから、断面が線状になっています。昔は良い土がなかったので、砂が結構入っていて、砂、粘土、砂、粘土、と互い違いになっていました。で、この中段のブルーシートの辺りが、カスリーン台風時の高さです。

磯部祥行 編集者
内側に、川を狭める方向で堤防を拡張しているんですか?

三橋さゆり 河川管理者
この写真は、先ほどの図とは左右が逆でして、堤内地側(川と反対側)に拡幅しています。先ほどの図の例は前に出して拡幅しています。

磯部祥行 編集者
どちらの方向へ拡幅を行うのかは、用地の問題ですか。

三橋さゆり 河川管理者
先ほどの例は特異で、旧堤が少し堤内地側にあった所でした。そのぶん線形上、たまたま川の方に出しています。こちらの写真のように川と反対側つまり堤内地側に拡幅していくのが普通です。

3) ダムについて

三橋さゆり 河川管理者
そして「川に多く流す」ことに加えて、合わせ技として「上流に貯める」ために藤原ダムを建設しました。このダムは本川系では古い方です。

北河大次郎 ドボ博館長
藤原ダムが利根川で一番古いダムですか?

三橋さゆり 河川管理者
本川では一番古く、昭和33年竣工です。藤原ダム以外にもたくさんのダムが建設され、現在は図のようになっています。

知花武佳 河川研究者
利根川水系で考えると、一番古いダムはどれですか?

三橋さゆり 河川管理者
多目的ダムとしては、鬼怒川の五十里ダムです。五十里が戦中、戦後の時代に、それから藤原、下久保の順番で作られました。

4) 治水計画の変遷

三橋さゆり 河川管理者
利根川の治水計画は何回か改定されています。先ほど説明した昭和24年の改定以降は、昭和55年と平成18年の改定があって、1/200という『確率規模』の概念が入ってきました。200年に一度の洪水に耐えられるような安全性を備えた治水計画にするということです。それ以前までは既往洪水に対応して改訂していましたので、大きな洪水が来る度に計画を書き直していましたが、そこからのさらなる転換になります。

知花
確率規模の概念が入ってくるきっかけは、熊本県の白川の洪水ですよね。既往最大の手法でやっていたところ、白川で大雨が降って大洪水になりました。そこを既往最大でやってしまうと、利根川に比べて白川に頑丈な堤防ができてしまって、変だろうと。白川には高い堤防があるのに、カスリーンが直撃した利根川の堤防が低いのはおかしいと指摘があり、バランスを取るために確率規模が入ってきたと聞きました。

北河大次郎 ドボ博館長
平成18年の改定のきっかけは何ですか?

三橋さゆり 河川管理者
新河川法に基づくものです。

北河大次郎 ドボ博館長
すこし遡りますが昭和14年は、小貝川が決壊した前年の洪水を受けての改定ですね。

三橋さゆり 河川管理者
そうです。本川でも決壊しました。

北河大次郎 ドボ博館長
このころは既往最大といっても、予算など実現性を考慮しての計画だったんですよね。

三橋さゆり 河川管理者
そうですね。いろいろな社会情勢と兼ね合いの中で治水事業も行われていました。例えば、利根川の昭和14年までの改定は、予算がなかった関係で実は既往最大にはほど遠いのです。当時の国力からして、仕方がなかった部分があったとはしても、淀川などの他の河川は、初めから大きな流量でやっていたのに、利根川はギャップが大きかった。

知花武佳 河川研究者
この変遷を見ると、対象河川がどんどん増えてますね。

北河大次郎 ドボ博館長
確かに最初は本川を含めて三本だったのが、最後は倍以上になってますね。これも、初期のころは工事をしようと思っても規模的に時間も予算も足りないから、後になってから計画の前提を変えているっていうことですか?

三橋さゆり 河川管理者
はい。あと、上流の氾濫も無視していました。しかしそれも、段々ちゃんと入れていくようになります。

5) 首都圏外郭方水路

三橋さゆり 河川管理者
次に首都圏外郭放水路です。「よく見るけれども、これは何だ?」と思う方も多いかと思います。これも利根川流域のどこに位置しているかをみると、役割がよく理解できます。

三橋さゆり 河川管理者
首都圏外郭放水路の話をするには、利根川東遷・荒川西遷に戻る必要があります。利根川を東遷しても、昔流路があったこの放水路のあたりが、地形的に一番低い場所なので、利根川と荒川以外の残りの川の水がみんな集まってきてしまいます。ここが溢れて、春日部や越谷はしょっちゅう浸水していました。こうした地域をなんとかするために作られたのが、首都圏外郭放水路です。

三橋さゆり 河川管理者
他にも綾瀬川放水路、綾瀬排水機場などあって、溜まる水を安全に移動させる役割を担っています。首都圏外郭放水路は、かつての利根川の谷間にある倉松川、大落古利根川などの水を集めて江戸川へ移動させ、吐き出します。

大村拓也 土木な写真家
それによって、下流の負担も減るんですね。

三橋さゆり 河川管理者
そうです。ここで集めて江戸川に流しますから、谷間に位置する川の下流の流量を減らせるわけです。

三橋さゆり 河川管理者
外郭放水路に水を溜めておくこともできるので、江戸川の流量が下がってから流すこともできます。台風19号の時は結構溜めていましたね。これだけ延長があるので結構水が溜まりますね。

大村拓也 土木な写真家
調圧水槽だけでも水は結構溜まりますか?

三橋さゆり 河川管理者
神殿のところは結構溜まります。今までの記録が写真で残っていますし、現地にも、どこまで水位が来たか線が引いてあります。

大村拓也 土木な写真家
広くなっているのは、調圧するためにポンプをいくつか配置しているせいですか?

知花武佳 河川研究者
広エネルギー保存の法則があって、水の場合は位置エネルギーと運動エネルギーと圧力エネルギーの三つの和が一定になるというのがベルヌーイの定理です。水が流れている時、エネルギーを三つ持っています。そこにポンプが急停止すると、運動エネルギーが急にゼロになってしまい、位置エネルギーか圧力エネルギーが増えないとバランスが取れません。その時に管路がきちきちだと、位置が変わらないので、圧力が増加するしかなくなってしまいます。そうすると管が破裂してしまいますよね。管の破裂を防ぐためにサージタンクと言って、管の所々に空気抜き穴が設けてあります。ポンプが急に止まると水面がドンと上がって安定する、というのが調圧水槽の本来の役割です。

三橋さゆり 河川管理者
そうですね。よく発電施設でも見られます。

大村拓也 土木な写真家
なるほど。初めて聞きました。

知花武佳 河川研究者
でも、普通はなぜ調圧水槽という名前なのか分からないですよね。

三橋さゆり 河川管理者
そうですね。あとなぜ柱がたくさんあるのかとかも分からないですよね。

大村拓也 土木な写真家
太い柱がたくさんあるのは地下水圧との関係だというのは皆さんがご存じない話ですよね。調圧水槽の底版が3メートルくらいありますね。柱は屋根を支えているというよりは、地下水の揚圧力で水槽自体が浮き上がるのを抑える目的なんです。

(7) ポイントその5 質の強化

三橋さゆり 河川管理者
拡幅や築堤、ダムや放水路建設は「量」の対策といえますが、さらに合わせ技として「質」の強化も行っています。

三橋さゆり 河川管理者
堤防が破堤する際には三つのメカニズムがあります。川の水位が堤防の高さを上回ると、堤防から水があふれる越水が生じ、この越流によって堤防が決壊する可能性が高まります。一方、川の水位が堤防の高さを上回らなくても、途中で浸透や洗掘で壊れてしまう可能性があります。この場合、堤防を強化する必要があります。それが質の強化です。

三橋さゆり 河川管理者
強化のためにいろいろなことをしています。例えば、利根川では止水矢板を設置しています。水が浸透してくるのを止める効果があります。さらに利根川と江戸川では、首都圏氾濫区域堤防強化対策を行っています。名前の通り、首都圏を守るために非常に分厚い堤防を作って、浸透に対する安全性を高める対策で、現在の進捗はざっくり3分の1ほどです。

北河大次郎 ドボ博館長
それはスーパー堤防とは違うんですね。

三橋さゆり 河川管理者
スーパー堤防は天端(てんば:堤防の上の平らなところ)がもっと大きくて広く、土地の開発などが行われます。首都圏氾濫区域堤防強化対策では、天端は広くせずに、堤防ののり面がなだらかで広いのです。これは利根川固有の事業です。東京から60キロも離れた所で下流の都市を守るためにこんな事業をしているのに、認知度が低くてですね、もし日光や宇都宮へ行く際は、利根川を渡る時にこの堤防を少し見てくださいね、と言っています。

知花武佳 河川研究者
北海道には、丘陵提という丘陵のようなゆるい堤防がありますね。例えば、十勝川の下流域は、泥炭層が広く分布し軟弱な地盤地帯のため、勾配のゆるやかな堤防の整備(丘陵堤化)を行い、安全性を高めています。

(8) ポイントその6 ソフト対策(広域避難協定)

三橋さゆり 河川管理者
質の強化の他にソフト対策も重要です。図は想定最大規模の洪水浸水想定区域図ですけれども、利根川の右岸側では東遷前に利根川が流れていたところに氾濫が広がっていきます。また逆に左岸側では氾濫流が滞留し10m以上の水深が長時間に及ぶようなところもあります。そこで利根川では、この左岸側の自治体を中心に、広域避難協定を結んでいます。

三橋さゆり 河川管理者
土地が低いため、各自治体が広範囲が浸水してしまうんですね。そのため、協定を結んで全域避難を行うことにしています。

三橋さゆり 河川管理者
実は10年以上前からこれらの自治体と広域避難の勉強をしてきており、3年前に「利根川中流4県境 広域避難協議会」を設置していました。台風19号では、そこでの検討に基づいて初めて広域避難も実際に行われました。これは全国でも初めての大規模な広域避難と言われています。

大村拓也 土木な写真家
市外に出るということですね。

三橋さゆり 河川管理者
そうです。近くの公民館や学校に避難ということではなく、完全にエリアから出てしまうのが広域避難です。
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