四国インフラ028 はりまや橋

「民」の土木から始まったにぎわい


よさこい節に歌われ、純信とお馬の恋物語で知られるはりまや橋。現在かかっている橋は長さ20mほどの目立たない桁橋であるが、その周辺は近世より続く高知城下の一大繁華街として知られる。

関ヶ原の戦いの後に転入した山内一豊は、江ノ口川(大川)と潮江川(鏡川)に挟まれた東西に長い中州状の土地に高知城を築き、城下町を計画した。南北を流れる河川の洪水を防ぐために、城下町全体を堤防で囲み、上流側から上町、郭中、下町という三種のまちを設定した。城の直近のエリアであり、家老・中老ら重臣を住まわせたのが郭中。その東西に外堀を設けて上町・下町との境界とし、上町には奉公人を住まわせ、下町は商人町と湊町の機能を併せ持つまちとした。

さて、はりまや橋はと言うと、商いのまちである下町のエリアにある。江戸初期、下町を南北に区切る堀川の北側種崎町の豪商・播磨屋崇徳と、南側浦戸町の豪商・櫃屋道清が設けた私橋がそのはじまりである。やがて公共の橋となり、周辺が下町の中心繁華街となっていった。その後、文政10(1827)年になると、橋の中央三間(約5.5m)を空けて両側に「十九文屋」(雑貨や駄菓子類を19文均一で売る店)というこけら葺きの小店が出された。途中禁止された時期があったものの、大正期までそのにぎわいは続いたという。

執政のシンボルである高知城が<左脳>だとしたら、情感あふれる「民」のまちであるはりまや橋周辺は<右脳>となろうか。その中心には、かつて民間有志によって架けられたひとつの木橋があった。「民」の土木施設がその起源となっているとは、これまた何とも<右脳>らしいではないか。(尾崎)

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参考文献

土佐史談会・高知市教育委員会(民権・文化財課)編:改訂版 高知城下町読本,高知市(観光振興課),2017.
高知市史編さん委員会 絵図地図部会編:描かれた高知市 高知市史 絵図地図編,高知市,2012.

種別 橋梁・都市
所在地 高知県高知市
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