2世紀以上にわたり、隅田川の河口出入口を飾った大橋。江戸時代に落橋し、関東大震災で炎上するなど、数々の災難に見舞われたが、震災復興事業によって、より太く強い<血管>の一部として再生した。
もとより関東大震災は、永代橋だけではなく、東京ひいては日本全体の橋の姿を一新するきっかけとなった。
「(震災復興事業を主導した)後藤新平の虹のような新東京の構想はしぼんだ。すこしは生きのこった。橋梁を一変するということであった。後藤の気分は、東京市(ママ)土木部長太田円三にのりうつった。太田は大構想をたて、・・・隅田川にかかる6つの橋(相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)を世界最先端の橋にやりかえたのである。・・・それぞれデザインを変え、工法まで変えたのは、日本の橋梁そのものを隅田川六大橋から一変させるという前途まで見とおしたものであった。まこと後藤的気分がみなぎっていた。」(司馬遼太郎)
細い材を組み合わせた鳥かごのような大正以前の橋梁デザインから脱却し、放物線状の大規模ソリッドリブアーチからなる荘重な造形を生み出した永代橋は、見る人に新鮮な驚きを与えた。
「兜形の大きな弧線、堂々たるその雄姿・・・、その重圧と均斉と、放射線と、緩い両裾の美しい線と、まさしく墨水第一の鋼鉄橋である。」(北原白秋)
「この橋は何といつても技術的東京復興の傑作である。これは全く新東京の旧江戸に対して述べるおさらばである。」(木下杢太郎)
ただ、この木下杢太郎(本名・太田正雄)は、復興橋梁建設を主導しながらも、志半ばで自ら命を絶った太田圓三の弟でもあり、永代橋には個人的思いも投影されていた。
「基礎はなるべく近世的科学的にして、建築様式には出来るだけ古典的な荘重の趣味を取り入れて造って貰ひたい。などと空想して得心した。それだのに、同じ工事を見ながら、今は希望もなく、感激もなく、うはの空にあの轟轟たる響を聴き、ゆくりもなくもさんさん涙ながれる。・・・水はとこしへに動き、橋もまた百年の齢を重ねるだらう。わたくしの今のこの心持は、ただ水の面にうつる雲の影だ。」(木下杢太郎)
建設の経緯を紐解けば、近代のモニュメントとしての姿が浮かび上がる。しかし、理屈を抜きにして、飾り気のない大きく朗らかな姿で人々の想いを受け止めてくれるのも、橋のよさかもしれない。(北河)
木下杢太郎全集第1巻、岩波書店、1981.
木下杢太郎全集第14巻、岩波書店、1982.
司馬遼太郎:街道をゆく36本所深川散歩・神田界隈、朝日文芸文庫、1995.
講談社文芸文庫編:大東京繁昌記下町篇、講談社文芸文庫、2013.
種別 | 道路橋 |
所在地 | 東京都中央区・江東区 |
構造形式 | 鋼製 アーチ橋 |
規模 | 橋長184m |
竣工年 | 1926年 |
管理者 | 東京都 |
設計者 | 国(内務省) |
備考 | 重要文化財 |