太田道灌時代の江戸城は、平川の付け替えにより日比谷入江から神田川との合流点までの南・東・北三方を河川で、西側は崖線で防御をはかった。
徳川幕府はいち早く日比谷入江を埋立て道三堀の整備に着手するが、かつて氷河期に侵食された深い川筋を利用して内濠とするなど東側は自然地形を多く取り入れた一方で、西側には人工的な地形改変(<外科手術>)を加えた。
半蔵門を分水嶺として、最も高い標高約17mの半蔵濠から北は千鳥ヶ淵や大手淵を通って桔梗堀へ、南は桜田濠から最下流1.3mの日比谷濠へ順に流れ江戸湊へ流された。河岸段丘を利用した牛ヶ淵、麹町台地の下流をせき止めた千鳥ヶ淵は都心のダムであり、城内の上水に利用された。
日比谷濠に集められた水はその先の内山下濠から外濠、汐留川を経由して江戸湊へ流されたが、埋め立てられた内山下濠の一部は現在日比谷公園の心字池に名残を留める。
「半蔵門といえば、・・・三宅坂を下って、桜田門へいたる間の濠端は何という美しさであろう。麹町はこの内濠をもって誇りとする事が出来るが、東京もまた然り、日本もまた然りというべきである。」(有馬生馬)
近年は、近世から近代に至る重層的な都市整備の歴史の上に形成された首都東京を代表する地区として、多くの管理主体を調整するデザイン検討が行われ、江戸期の屈曲道路の遺構(残地)の緑地を新たにお濠を望む視点場に改変したり、さまざまなストリートファニチャや舗装等の細部に至るトータルデザインがなされるなど、質の高い公共空間が生み出されている。
1965年に淀橋浄水場が廃止されるまでは、玉川上水の余水が半蔵門から内濠に吐き出されていたが、その後は水質悪化の進行が問題化した。大丸有地区では、オフィスビルの再開発にあたり地下に浄水設備を設ける事例が出てきており、かつて大名たちが担った治水や水管理の現代版のようでもあるが、容積率緩和というおみやげつきである。(土井)
大東京繁盛記 山手編、平凡社ライブラリー、1999.