幕府の中枢から日本の行政・ビジネスの中枢を担う<左脳>として絶えず更新を続けている。
グリッド状の巨大街区に並ぶ軒高100尺で縁取られていた<大脳皮質>は、今やガラスのカーテンウォールが建ち並ぶ超高層ビル群と化し、スカイラインを見失わせている。土地利用の高度化は上空だけでなく、地下街や地域冷暖房システムといった地下ネットワークにも及ぶ。
明治に入ると、大名小路と呼ばれた丸の内・大手町の大名屋敷跡が官公庁用地とされたが、西南の役が終わると丸の内に配備されていた軍施設が郊外に移転し、市区改正により「将来繁昌地となるべき」商業地として1890年、8万4千坪の土地が三菱に払い下げられた。
第一の経済地区とされていた兜町ビジネス街が、東京築港計画の遅れや水運衰退の影響に直面するなか、1914年の中央駅の誕生が決定打となり、丸の内は一躍資本主義のヘッドクォーターとして台頭する。
「京阪地方から上京する旅客は、横浜を過ぎて大森あたりから、漸く帝都に近くなったという感じがするであろう。しかしながらわい小な家屋が乱雑に建っておるのを見ては、これが帝都かという浅ましい感じがまたしないことはなかろう。・・・それが漸く新橋を過ぎて、わが丸の内にはいるとはじめて面目が改まって、やや帝都の帝都らしい感じがして来るであろう」「大正十二年、丸の内ビルデング即ち丸ビルが出来て、この丸の内の空気に一大変革をもたらした」(高浜虚子)
一方、明治初年には旧本丸跡に計画されていた官庁街は、外務卿井上馨の牽引により日比谷から霞が関一帯に欧化主義の体現さながらの官庁集中計画が立案されるも、実現を見たのは裁判所と司法省の建築であった。
「天を摩するような・・・と思われていた司法、海軍省等の官衙も、今は丸の内諸建築に圧せられて、昔日の顔色なく、いかにも田紳の洋服姿という有様で立並んでいるのは、少々帝都の装飾として不似合になってきた」(有島生馬)
大丸有エリアの再開発は、オフィス街からショッピング、都市観光の街への多面化を促し、遊歩道化した仲通りが大手町エリアまで延伸することで、日本橋川へと続く新たな<骨格>が生み出されようとしている。(土井)
大東京繁盛記 山手編、平凡社ライブラリー、1999.