呼んで字の如く「築かれた地」である。「築地」と呼ばれる土地は全国に存在するが、たいてい埋め立てによって造成された土地である。地名が、土地の出自を物語っている。
東京築地の場合、江戸時代の本願寺本堂の建設のときに、最初の埋立てが行われたといわれている。深川と同じく、宗教施設を核とした埋め立てである。幕末維新期には、異文化を受け入れるウォーターフロント・外国人居留地として西洋文化の窓口となり、長らく海軍用地としても使用された。
ただ、築地の名を有名にしているのは、なんといっても世界最大の魚市場であろう。これは関東大震災のあと、巨大化する東京の新たな<胃>として、江戸時代から続く日本橋の魚河岸を移設・集約してつくられた。
「巨大な東京人の胃袋を満たすため、近海遠洋の魚類や国内各地の野菜類が、ここで毎朝早くから威勢よく取引される。・・・いわば、毎朝東京でいちばん早く目ざめる一画だといってよい。」(松本清張、樋口清之)
「銀座へも歩いて行けるし、歌舞伎座、東劇、新橋演舞場などの劇場は、どれもほんの一と跨ぎの距離だったから、散歩がてら立ち見で一幕のぞいてくるという気軽さもあった。そして帰りがけには、魚河岸場外の鮨屋でちょっと鮨をつまんで夕食の代わりにした。こういうときは、いかにも都会の真ン中に住んでいるという満足感があった。」(安岡章太郎)
樺山紘一が指摘するように、「都市」には「都」と「市」があり、「都(みやこ)」では統治機能が担われ、「市(いち)」では市民らが集いなんらかの社会的な活動が展開されてきた。そうだとすれば、築地は、単なる卸売り市場ではなく、銀座・新橋と一体となって多様な都市活動が展開する、現代の「いち」の一部といえよう。
この「いち」の中核部分が、周辺の都市活動から切り離され、今、豊洲に移ろうとしている。ちなみに「都」の統治機能の中枢は、すでに新宿に移転済である。都市機能を多極化しながらも、緊密なネットワークでそれらを繋ぎ止め、一体性を維持してきた巨大都市・東京。その東京に今、新たな時代が生まれようとしている。(北河)
引用
松本清張、樋口清之:東京の旅、光文社文庫、1985.
安岡章太郎:僕の東京地図、世界文化社、2006.
樺山紘一:都市とはなにか、都市史研究1、山川出版社、pp. 105-110.