東京インフラ045 水元公園

利水と治水の闘いの名残り


隅田川、荒川放水路より東側は、利根川水系の流域となる。もともと関東平野には、異なる川が入り乱れて流れていたが、舟運路を整え、水害を軽減するために営々と工事が続けられ、今の形となった。利根川については、3世紀を超える<大手術>の末に、注ぎ口が東京湾から千葉県銚子に変更され、流路も定まった。

明治以降の工事は、基本的に中央政府が担ったが、江戸時代には、幕府の命で江戸とはゆかりのない大名が借り出されることもまれではなかった。例えば、寛保の利根川氾濫後は、九州・中国地方の西国大名が復旧工事を行っている。領国経営のかたわら、ゆかりもない土地に人もカネもつぎ込まなければならなかった大名にとってはえらく迷惑な話だが、これは、将軍家と大名の主従関係を浮き彫りにし、封建体制を維持するための一種の政治手法でもあったはずである。

水元公園は、こうした技術と政治の長い歴史を背負った利根川の<手術>の痕跡である。ここは、整備の過程で廃止された古利根川の湾曲部に広がる湿地帯で、増水時の水の逃げ場になると同時に、「水元」の名のとおり、用水の水源としても利用された。そして、皇紀2600年(1940)を期に、大緑地として計画・整備された。

「グローブのように突き出した一帯が水元地区です。ここには「小合溜」に沿って造られた広大な水元公園が設備され、水草の繁る豊かな湿地風景を指して、古くから”東京の水郷”と呼ばれてきました。ちなみに小合溜とは、西方をくねくねと流れる古利根川(中川)の洪水を防ぐため、享保の時代に掘り込まれた、”人工湖”のことです。」(泉麻人)

ここには、水の流れを制御するため近代に築かれた閘門橋(1909年)も残る。さらに広大な敷地には、雑木林に覆われた武蔵野とは異なる、人工的な景観美が創り出された。

「ここがクヌギやコナラの多い石神井あたりと違うのは、メタセコイアとかラクショウとか、ヨーロッパ風の針葉樹が目につくこと。ふとロンドンやパリ郊外の公園を散歩しているような気分になります。」(泉麻人)

美しい緑地であることは確かだが、利根川水系を舞台に繰り広げられた利水と治水の長い戦いの歴史のことを思うと、今の景観美もどこかよそよそしく見える。(北河)
 

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引用
泉麻人:新・東京23区物語、新潮文庫、2001.
泉麻人:大東京23区散歩、講談社、2014.

種別 公園
所在地 東京都葛飾区
規模 面積92ha
竣工年 1965年開園
管理者 東京都
備考 土木学会選奨土木遺産(閘門橋のみ)
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