かつての五街道の起点。今も、日本列島を貫く7本の主要な直轄国道がここを起点としている。道路ネットワークの<心臓>である。
歴史上、混乱の世を治めたリーダーの多くが、領国経営において重視したのが、インフラの掌握であった。インフラの現状を把握し、インフラシステムを再構築して、管理体制を整える。その過程で、実質的にも象徴的にも重要だったのが、ネットワークの起点つまりゼロマイル地点の設定だった。古代ローマ帝国しかり、ナポレオンしかり、そして近世日本の徳川家康しかりである。彼は、江戸に幕府を開くのとほぼ時を同じくして、日本橋を建設し、全国の里程の基準とした。
その後、橋の周辺は商業の中心として発展した。明治以降は、産業立国ニッポンの屋台骨を支えた三井と、越後屋三井呉服店から近代消費社会の象徴に進化し、「あそこに行けば、凡てが解る。近代の都市の一切がある。」と今和次郎が述べた三越百貨店が、引き続きこの場所に店を構えた。さらに、資本ネットワークの拠点である日本銀行(「銀座」ならぬ「金座」の跡地)や東京証券取引所も立地し、人と車だけではなく、カネの循環を促す<心臓>としても機能した。
さて現在の日本橋は、2連アーチの石橋である。設計を任された米元晋一は、当時の最先端技術・鉄筋コンクリートを試したかったそうだが、リスクを考慮した上司の中島鋭治が、石橋で架けるよう命じたという。
ただ石橋といっても、日本橋は構造計算を行い、西洋の石橋風のデザインを施した、近代構造物であった。そして橋の上は、千里を駆け抜ける麒麟、東京を守護する獅子、一里塚をあらわす松や榎をモチーフとした照明など、特徴的な彫刻で飾られた。もともと東京市がつくった試作品では、太田道灌と徳川家康の像が橋の中央で向かい合うデザインだったが、それが変更されて今のデザインに落ち着いたという。
「日本橋は東京の歴史上の第一の橋だが、新しい日本橋は青銅の燈や比喩的動物などをくつ附けた悪い欧風の石造りである。」(グラッサー)
和漢洋の要素が混ざり合うこの石橋の評価は、見る人、時代状況によって左右される。例えば、竣工から間もない日本橋を訪れたドイツ人批評家・グラッサーには、このデザインが悪趣味に見えたらしい。ただ、寓意に富み、存在感のある都市モニュメントとしての日本橋の魅力は捨てがたい。時代を映す鏡として、この日本橋のデザインが、今後どう評価されていくのか注目したい。(北河)
今和次郎:新版大東京案内、中央公論社、1929.
木下杢太郎全集第19巻、岩波書店、1982.
種別 | 道路橋 |
所在地 | 東京都中央区 |
構造形式 | 石造 アーチ橋 |
規模 | 橋長49.1m |
竣工年 | 1911年 |
管理者 | 国(国土交通省) |
設計者 | 東京市 |
備考 | 重要文化財 |