東京インフラ023 常磐橋

Early urban modernization by Japanese engineers


明治のはじめ、都市近代化の主な担い手は、政府に雇われた外国人技術者・お雇い外国人であった。彼らは、鉄道、水道・下水道、煉瓦構造物など、日本人が見たこともないインフラを次々と東京にもたらした。それは、まさに文明開化の風景であった。

一方この時期、日本人が手がけた近代都市施設がなかったわけではない。例えば、明治初年に東京につくられた石橋。九州では、江戸後期からすでに普及した技術であったが、木橋に見なれた東京人にとって強固な石橋は新鮮に映ったことだろう。実際、東京市内には、九州の石工の手で10基以上の石橋が架けられ、火事の多かった大都市の不燃化と都市交通の安全に寄与した。これらも、鉄道などと同じく文明開化の象徴として、錦絵によく描かれた。

石橋の多くは、江戸城の防御施設だった見附の石材を転用してつくられた。つまり石橋建設には、都市防御を重視した江戸の閉鎖的都市構造から脱却して、開かれたネットワークをつくろうとする明治の人の意識が投影されている。ちなみに街道の関所廃止も同じ時期である。

このように明治初年の石橋は、江戸から東京への移り変わりを象徴的に示す貴重な歴史の証人なのだが、今その遺構は常磐橋しか残っていない。その他は、西洋から近代技術を学んだ日本人技術者によって、鉄とコンクリートを使った橋に架け替えられた。

「今日、東京その他に出来るへんな四角い橋はあれは何という形であろう。私はたとい貧弱でも一と昔前の新橋や、常磐橋がなつかしい。実に今日は一切が概念的である。」(岸田劉生)

概念的ではない、より経験的な技法が生み出した常磐橋。工業製品のような今の橋とは違い、材料の個別の特性を見極めながら、切り、削り、積むという、伝統の技がここに詰め込まれている。しかし、それとは裏腹に、閉鎖から開放の都市システムへの変換を象徴するという意味では、この橋も多分に概念的な存在といえよう。

なお常盤橋は、東日本大震災で被災後、竣工以来はじめてとなる大規模な修理を実施中である。石を一つ一つ丁寧に解体し、伝統の知恵を確かめながら、再び石積の力強い造形を取り戻そうとしている。(北河)

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引用
講談社文芸文庫編:大東京繁昌記下町篇、講談社文芸文庫、2013.

種別 道路橋
所在地 東京都千代田区
構造形式 石造 アーチ橋
規模 橋長32.8m
竣工年 1877年
管理者 千代田区
備考 史跡
文化遺産オンライン
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