東京インフラ068 駒沢オリンピック公園

Legacy of the two Olympic Games


1913年、東京ゴルフ倶楽部が農地を借り上げて開設した日本人主導による我が国初のゴルフ場「駒沢ゴルフ場」として開発。以来、スポーツの舞台としてのDNAを脈々と息づかせてきた。
1932年にゴルフ場が朝霞に移転した後、神宮外苑案が頓挫した皇紀2600年オリンピック主会場に決定され、世界最大級のメインスタジアム、水泳競技場、選手村を含む一大スポーツセンターが計画されたが、オリンピック開催返上により構想は白紙となった。

戦時中は東京都の防空緑地となり、戦後は国有地となり農地として貸し付けられるなどするも、1953年に東急電鉄の寄付で硬式野球場が建設され、翌年からプロ野球東映フライヤーズの本拠地「駒澤野球場」として親しまれた。
1964年オリンピック開催が決定すると、第二会場として総合運動場整備が計画され、バレーボールやサッカー、ホッケーなど6つの競技施設が建設された。

駒沢オリンピック公園のグランドデザインを描いた都市計画家・高山英華は、「緑と空。取り澄ました日比谷公園のように、大人たちの働くビジネス街にあるのではなく、郊外にあって、子供たちが冒険し、発見し、楽しむ公園。運動の苦手な子でも、ひとたび足を踏み入れれば運動したくなり、知らず知らずスポーツに加わってしまうような公園」(東)を構想したという。

公園敷地を二分する駒沢通りを拡幅しバスストップ部分を掘り下げることで、歩車動線を分離するだけでなく、入り口の正面性と、塔を設けた2階中央広場のシンボル性を演出したアプローチ空間は、都市プランナー秀島乾によるアイディアとされ、駒沢公園のランドスケープを決定づけた。

駒沢の計画は、土木・建築・造園の協奏による都市計画の理想の実現であったと高山に言わしめた。ベルリンオリンピックの日本サッカー代表候補でもあった彼にとって、駒沢会場で日本サッカー代表がアルゼンチンを破るという「東京の奇跡」が起こったことは、まさに最高の舞台に贈られたメダルだったのかもしれない。(土井)

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引用
東秀紀:東京の都市計画家 高山英華、鹿島出版会、2010.

種別 公園
所在地 東京都世田谷区・目黒区
規模 面積約41ha
開園年 1964年
管理者 東京都
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