「パリのシャンゼリゼエ、ベルリンのウンタアデンリンデン ━ それらの大通を思はせる舗装と街路樹、しかし品川から千住まで、新しい大動脈のやうに東京を南北に貫く3里20町は、それらの大通よりも遥かに長いといふ、第一号幹線道路だ。昭和通と呼ばれる24間道路だ。・・・電車線路、街路樹、車道、街路樹、人道 ━ から分れてゐるのだが、その車道がまた、急速車道と緩行車道とに、分かれてゐる。急速車とは、つまり自動車のことだ。従つて、恋人とのドライヴでもあるならば、滑らかなコンクリイトは、まことに近代感覚の喜びにちがひないのだが。」(川端康成)
1923年に発生した関東大震災の後、復興予算の大半が費やされたのが道路事業だった。そして、その中でも政府が力を入れた横綱級の道路が、幹線第1号の昭和通りと、第2号の大正通り(現在の靖国通り)であった。昭和通りが、新橋・上野という南北のターミナルを結ぶ南北の軸線なら、大正通りはJR総武線とほぼ並行する東西の軸線。両国橋を渡って国技館の脇を通り、千葉まで抜けていく。これら”横綱”道路の交差点は、秋葉原駅近くで、東京低地の一大十字路を形成した。
この2本の道路は、単に自動車交通の軸線であるばかりでなく、その後、東京のインフラが重層するための貴重なスペースを提供した。昭和通りの下には日比谷線と都営浅草線が通り、上空には首都高1号線が通る。冒頭の川端康成の文章にあるように、もともと街路樹が4列並ぶ道路だったが、戦後の瓦礫処理とこの首都高の建設で、今や当時の面影はない。一方、大正通りは地下に都営新宿線と半蔵門線が通り、九段坂には共同溝が設置された。これはわが国で初めての幹線共同溝であった。
「この真直ぐなコンクリイトの街は、生き生きした力に溢れている。都会の新しい血が流れてゐるようだ。」(川端康成)
1920年代につくられたこの2本の太い<血管>は、時代の要請に応じて高度な<循環器系>を構築する上で、重要な役割を担ったわけである。こうして数々の犠牲を払いながらも、東京に「都会の新しい血」は流れ続けている。(北河)
川端康成全集第4巻、新潮社、1981.
種別 | 道路 |
所在地 | 東京都千代田区・中央区・港区・台東区・新宿区 |
規模 | 延長11.2km(靖国通り) |
竣工年 | 1928年(昭和通り) |