萩御殿・ホフマン砂防

愛知県瀬戸市

明治初期、全国における多くの都市近郊の山地は、激しい収奪のためにハゲ山化してしまっていたが、特に窯業の燃料として樹木の採取の激しかった瀬戸近郊の荒廃は著しかった。1897(明治30)年の砂防法に基づき、1900年に愛知県が瀬戸町字西茨(現萩殿町)一帯の復旧事業を手掛け、当時先進的だった取り組みに対して、多くの見学者があったため、工事を眺める建物が設けられた。1910年にここへ皇太子が行啓したことから「萩御殿」と呼ばれるようになった。

 

同じころ、それまで日本の治山砂防技術はオランダやドイツのなだらかな丘陵性山地を対象としたものだったことに対して、オーストリアの技術が導入されはじめており、招聘されていた同国のアメリゴ・ホフマンが、東京帝国大学の学生、川添孝蔵を指導して、瀬戸(字印所)の砂防工事が設計された。当時先進的だった渓流に直接施す工法で、その施工地が「ホフマン工事」と呼ばれている。いずれも現在では、その痕跡が分からないくらいに、周辺一帯がみごとに森林を回復している。

 

 

参考:

社団法人全国治水砂防協会『日本砂防史』p.31, 1981

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