多目的ダムの先駆け – 山口堰堤

安井 雅彦

山口堰堤写真(水谷は左から3番目の人物)
山口堰堤写真(水谷は左から3番目の人物)

毎年9月のせともの祭りに賑わう愛知県瀬戸市は古くからの窯業が盛んなまちで、なかでも第一次世界大戦の際にヨーロッパでの陶磁器生産が中断したことによる市場拡大は、瀬戸に活況をもたらしました。これに応える生産の拡大には、製造効率の良い石炭窯の開発と瀬戸電気鉄道開通による運搬手段の近代化が際立って見えます。しかし瀬戸の産業発展を可能にした要因には、このほかに都市の基盤の「水利」の面で貢献した「山口堰堤」の建設があります。その山口堰堤に注目して当時の出来事を見てみましょう。

 

昭和初期、はげ山が広がり不足していた登窯の薪材に替えて石炭が運び込まれ、瀬戸の市街地は石炭窯の煙突が林立し、黒煙のたなびく工業都市に変わっていきました。そのため住民の保健衛生、防火の面から安定した給水の必要が痛感され、瀬戸市は1931(昭和6)年に瀬戸川上流の馬ヶ城貯水池と浄水場の建設を始めますが、水源の集水域が狭小だったため山を隔てた山口川上流からも導水することを計画しました。これが明らかになると山口川下流の農業用水から猛烈な反発を招き、下流の村々は絶対反対を唱えて妥協の余地は全く見当たりませんでした。

 

 

山口川の位置
山口川の位置

このとき愛知県は、重要な輸出産品であった陶磁器の製造を保護育成するうえからも、水利紛争を収拾するべき立場にありました。それに先立つ1925(大正14)年8月の豪雨により、山口川では堤防決壊、橋梁の流出が多数発生する大きな災害が発生していたことから、県は、1932(昭和7)年に開始された時局匡救事業(経済恐慌への対策)の資金を用いて山口川に貯水池を計画し、水害対策の一環として実施することで瀬戸市と下流との軋轢を治めようとします。山口堰堤はそのために建設されたもので、1933(昭和8)年、前年に施工した砂防堰堤を嵩上げして完成します。

この貯水池の計画を立案し工事を推進した人物が、後に内務技師となる水谷鏘(みずたにたかし)でした。水谷は山口堰堤の建設の経緯を内務省機関誌『水利と土木』に発表するとともに、貯水池などで流出を遅らせて洪水ピークを低減させる、中小河川での新しい改修方式の必要性を訴えます。山口堰堤は、それを実現する洪水調節と下流のかんがいなどへの補給、上水道の水源確保の役割を備えた多目的ダムでした。

わが国で多目的ダムの有効性を最初に研究した物部長穂は、内務技師であった1926(昭和元)年に発表した論文「我國に於ける河川水量の調節並に貯水事業に就て」のなかで、「同一池積を以て」と表現し、一つの貯水池を適切な貯留・放流によって運用すれば、洪水の調節と渇水時の補給の異なる機能を兼ねることができる、とする考えを示しています。内務省は1934(昭和9)年の室戸台風大水害の後、この考えを具体化するにあたり、関係者への配布資料『河水統制の提唱』を作成します。その冊子のなかで、既に完成した事例として「愛知縣山口川の貯水池」が紹介され、小事業であるが効果は実に偉大であると評価されており、山口堰堤がいかに時代を導く先進的な試みであったかがわかります。

 

 

『河水統制の提唱』(1935)に掲載された山口堰堤の写真
『河水統制の提唱』(1935)に掲載された山口堰堤の写真

その後水谷は、内務省土木局において1937(昭和12)年から開始された「河水統制調査」の担当官として全国64河川のダム計画の調査を指導していきます。その後対象を増やしながら、全国の主要な河川はダム計画の調査対象となりました。1943(昭和18)年11月には『河水統制計画概要』が取りまとめられ、調査の成果により府県において多くの河川の多目的ダムの事業が開始されていきます。

山口堰堤は、現在では砂防ダムの役割に戻っていますが、傍らに建てられた山口川調整池碑の表題「興利除害」は、「水利を興して水害を除く」とする多目的ダム建設の趣旨を象徴しています。

参考文献

・水谷鏘「山口川洪水調整池の概要」『水利と土木』1934.11,1934.12

・愛知縣土木部「時局匡救河川砂防事業報告 第二輯 昭和八年度」1935.10.31

・瀬戸市臨時水道部編輯「せとものゝ瀬戸市水道小誌」1936.6

・内務省土木局「河水統制の提唱」1935.7

このコラムにかかわる産業

窯業

窯業

Ceramics

このコラムに関わる製品

このコラムに関わるインフラ