土管坂

愛知県常滑市

明治初年、お雇い外国人のブラントンにより横浜居留地の下水道が計画され、国産の土管によって1871(明治4)年に完成するが、これらの土管は脆くすぐに壊れてしまったため、1872(明治5)年に常滑の鯉江方寿に強い土管製造の依頼があり、試行錯誤の上「真焼」の土管が開発された。下水管利用の後にも、鉄道敷設工事によって分断されてしまう水脈をつなぐ土管としての需要が全国で高まり、土管製造が常滑の一大産業となった。大量に製造された土管を使って、誇らしげに積み上げた擁壁が形成され、これらが今に遺ってまちの個性的な景観となっている。

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