ドボ鉄023塗工部の活躍

絵はがき:東海道本線・弁天島~新居町(静岡県浜松市西区~湖西市)


 初期の鉄道工事で架設された橋梁は、やがて明治末になると一斉に塗装の塗り替え時期を迎えたが、塗装工事を専門とする職人は少なく、その養成が急務であった。国産洋式塗料の草分けである日本ペイントでは、鉄道局の要請を受けて、1908(明治41)年に塗工部を新設し、直轄部隊による塗装工事を特命で請負った。
 塗工部の発足にあたっては、かつて静岡県下の東海道本線の橋梁工事で好成績をおさめた静岡県蒲原町(現在の静岡市清水区蒲原)の建設業の親方たちが世話役となり、地元出身者を中心とした塗装工の職人集団が結成された。俗に「蒲原組」と呼ばれた塗工部は、北海道から九州に至る全国各地の現場を集団で移動し、やがて朝鮮半島や台湾、中国東北部の塗装工事にも進出して、最盛期には約800名の職人を擁したと伝えられる。
 「幣(弊)社ノ発展シタル活動」と題した絵葉書には、東海道本線弁天島~新居町間の第二浜名橋梁に足場を組み、塗装作業に勤しむ職人たちの姿が写っている。塗工部の職人の中には、山陰本線の余部橋梁の塗装工事を縁として鉄道院に移籍し、現地に定住してその橋守として生涯を終えた人物もいた。
 塗工部の業務はその後、1920(大正9)年に日本ペイントから分離され、のちの建設塗装工業の源流のひとつとなって現在に至っている。「蒲原組」の故郷である静岡市清水区蒲原中の貞心寺には、1919(大正8)年に塗工部の解散に先立って建立された塗装工事殉職者追悼碑があり、危険な作業で命を落とした人々の供養が今も続けられている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2007年7月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

橋の塗装は、何年ごとに塗り替えるんですか?

A

 塗装を塗替える時期は、橋が架かっている場所の環境や、塗料の種類などによって劣化の具合が異なるため、一律には決められていません。ただ、検査のために足場を設置したタイミングで塗替える場合もあるので、劣化の有無にかかわらず定期的に塗替える場合もあります。環境条件は、田園部、山間部、都市部、海岸地区、工場地区、海浜工業地区などに区分され、早い場合は数年、遅い場合は20~30年程度で塗替えています。塗替えの時期は、一般的に塗膜の劣化状態、部材などを評点として劣化度の判定を行って決めています。(小野田滋)


”東海道本線・弁天島~新居町”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

橋に塗る色は、何かで決まっているんですか?

師匠

いや。特に決まりはない。

小鉄

昔も決まっていなかったんですか?

師匠

昔も決まっていないが、蒸気機関車が走っていた時代は、明るい色を使うと機関車の煤(スス)ですぐに汚れるから、鳶色(とびいろ)のような汚れが目立たない濃い色が使われていた。

小鉄

確かに。鉄道車両の車体の色も、昔は茶色が多かったですね。

師匠

お前さんも、ずいぶん古い話を知っておるな。さては昭和の生まれだな。

小鉄

やだなあ。博物館で保存されている古い鉄道車両は、だいたいがチョコレート色をしているから、誰でもわかりますよ。

師匠

橋も車両も、明るい色が使われ始めるのは、蒸気機関車が引退して電車が普及する昭和30年代くらいからかな。

小鉄

僕が生まれるずっと前ですね。

師匠

東海道新幹線を建設する時に、橋の色を明灰白色で統一することに決めたあたりから明るい色の橋が増えてきた。

小鉄

うちのアパートも、そろそろ明るい色に塗り替えてほしいですね。

師匠

塗工部みたいに、お前さんが直轄で塗装してくれるとありがたいんだがな。

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