ドボ鉄046現役唯一の跳開橋

絵はがき:四日市臨港線・末広橋梁(三重県)


 跳開橋は、橋の片側を回転軸として橋桁を跳ね上げる可動橋の一種で、ゴッホが描いたアルルの跳ね橋や、東京都中央区の勝鬨橋(かちどきばし)などで知られているが、鉄道橋でもかつて港湾地区の貨物線などでいくつか用いられた。しかし、鉄道貨物の衰退と共に姿を消し、現役で残っている跳開橋は、JR貨物が管理する三重県四日市市の末広橋梁のみとなってしまった。
 末広橋梁は、四日市から四日市港へ至る貨物線の橋梁として建設され、千歳運河の舟運と競合するため跳開式の可動橋を採用した。可動部の桁は、支間16.5mで、これを高さ15.6mの主塔で支えながら桁を持ち上げる構造とした。橋梁の設計、製作は、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)土木科を卒業し、アメリカの橋梁会社で修行した山本卯太郎(やまもとうたろう/1891~1934)の率いる山本工務所が担当し、1931(昭和6)年に完成した。
 「泗港跳上橋」(「泗」は四日市の別称で「泗水」にちなむ)と題した昭和初期の絵葉書には、桁を高々と跳ね上げた状態の末広橋梁がとらえられ、その傍らを小型の船が進んでいる。その姿は、あたかも橋が万歳をしているかのようで、見飽きることがない。
 かつて、船舶が通過する時のみに桁を上げ、貨物列車がいつでも通過できるように桁を降ろすのが基本であったが、1999(平成11)年以降は、跳上げた状態が定位となり、貨物列車の通過時のみに桁を下げることとなった。ちなみに1998(平成10)年には、近代化遺産として国重要文化財に指定され、今も1日数往復の貨物列車が通過している。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2009年9月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

山本卯太郎ってどんな方ですか?

A

山本卯太郎は、1891(明治24)年6月15日に大阪府で生まれ、干支(辛卯)にちなんで卯太郎と名付けられました。1914(大正3)年、名古屋高等工業学校土木科を卒業して、翌年アメリカへ渡り、橋梁メーカーで可動橋の設計・施工に従事し、イリノイ大学やアーマー大学で橋梁工学を学びました。1919(大正8)年に帰国して高砂工業所(現在の高砂工業)営業部長となったのち、山本工務所を設立して独立し、可動橋の設計・施工にあたるとともに、その特許を取得しました。下関への出張中に体調を崩し、1934(昭和9)年4月20日、働き盛りの42歳で急逝しました。(小野田滋)


”四日市臨港線・末広橋梁”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

まだ使っている構造物でも、国の文化財になれるんですか?

師匠

もちろんだ。

小鉄

鉄道ではほかにありますか?

師匠

東京駅や門司港駅が国の重要文化財だ。

小鉄

でも古くなければダメなんでしょ?

師匠

いちおう完成後50年以上が目安になっている。

小鉄

ってことは、師匠より古くなければダメってことですね。

師匠

古いだけでなく、文化財にふさわしい価値があるかどうかかが重要だ。

小鉄

うちのオンボロアパートも築50年以上だから、アパートで最初の文化財くらいにはなれるかもしれませんね。

師匠

アパートは、もう1962(昭和37)年に完成した東京都北区の旧赤羽台団地が登録有形文化財に登録されている。

小鉄

先を越されちゃいましたね。

師匠

うちのアパートも、お前さんが辛抱して住み続けてくれたら、そのうち文化財になれるかもしれんぞ。

小鉄

頑張りたいところですが、そんなに待てないから早くマンションに建て替えてくださいよ。

古写真山本卯太郎論稿1山本卯太郎論稿2-1山本卯太郎論稿2-2
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