「越すに越されぬ大井川」と箱根馬子唄にも唄われた静岡県の大井川は、駿府城や江戸防衛の見地や架橋自体が困難であったことなどから橋が設けられず、川越人足による「徒渡(かちわた)し」によって川を渡っていたことで知られている。1889(明治22)年に全通した東海道本線は、大井川に支間208フィート(約63.4m)のイギリス製ダブルワーレントラス×16連を架けてこの難所を克服した。
1907(明治40)年7月13日に発生した洪水によって、大井川東側の護岸が流出するなどしたが、ただちに応急工事にとりかかっていったん開通させた。しかし、同月15日にふたたび増水し、さらに同月18日から19日にかけての出水で東側橋台部分の路盤が流失してしまった。
このため、東海道本線はこの区間で渡船による連絡を行うこととなり、八丁(約870m)ほど上流に渡船場を設けた。渡船場では、これを奇貨として「大井川渡船記念鉄道線路欠潰」と題した絵葉書が発行され、かつての川越のための手形を模した記念スタンプを押したうえで、土産物として頒布された。
写真では一見して橋梁そのものが流失してしまったかのように見えるが、梯子(はしご)状に垂下した軌框(ききょう)が残っていることや、トラス橋の端柱に第1連目を示す「1」という数字が確認できるので、路盤のみが流出し、下部構を含む橋梁の本体には、大きな被害が及んでいないことが理解できる。
大井川橋梁は、1907(明治40)年7月24日に復旧・開通したが、その翌月の豪雨では山北~小山間(現在の御殿場線)で土砂崩壊が発生し、東海道本線はふたたび不通となった。そして、全線が開通したのは、同年9月10日のことであった。
大井川橋梁を含む島田~金谷は、1912(明治45)年に複線化され、上り線側にアメリカ製の支間204フィート9インチ(約62.4m)のシュウェドラートラス×16連が架設され、さらに1914(大正3)年度には最初に架設された下り線側のイギリス製ダブルワーレントラス×16連を国産の支間205フィート(約62.5m)のプラットトラス×16連に架替えた(下部構造はそのまま)。その後、シュウェドラートラスのピン結合部の弛緩が問題となり、1959(昭和34)年に上り線の上流側に新しい上り線のプラットトラス×17連を架設して旧上り線は廃止された。廃止された上り線は、その後も廃線跡に存置されたままであったが、のち撤去された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2012年6月号掲載)
Q&A
「軌框(ききょう)」って、聞きなれない言葉ですが何のことですか?
線路の専門用語で、レールとまくらぎを締結装置でつないで梯子状に構成したものを表す言葉です。線路は基本的に、路盤の上にバラストやコンクリートで構成される道床を敷いて、さらに軌框を敷設します。「框」は常用漢字にないため、現在では「軌きょう」と書かれます。(小野田滋)
”大井川橋梁”番外編
今回は「越すに越されぬ大井川」ですね。
江戸時代は架橋が禁止されていたからな。
渡し船もなかったんですか?
渡し船も禁止されていた。
それで川越人足が活躍したんですね。
ところが、明治時代に禁制が無くなって渡船が開始され、橋が架けられたら、川越人足がいらなくなってしまった。
みんな失業しちゃったんですか?
何人かは、牧ノ原台地でお茶栽培を始めた。
静岡といえばチャッキリ節だから、昔からお茶を栽培してたんじゃないですか?
気候が温暖でお茶栽培に適していたから鎌倉時代から栽培され、江戸時代にはお茶の産地として全国的にも知られていた。
だったら、それで十分じゃないですか。
ところが、明治維新で徳川家の家臣団が徳川慶喜とともに静岡へ移ることになって、何か仕事を探さなければならなくなった。
家族や家来もいたから、大変だったでしょうね。
牧ノ原台地では、失業した武士たちに加えて、大井川の川越人足たちがお茶栽培に参入することになった。
それでお茶栽培がますます盛んになったってことですね。
明治時代には一躍、全国一の生産量になった。そういえば、チャッキリ節は静岡鉄道のCMソングとして作曲されたという小ネタを知ってるか。
ええっ!? チャッキリ娘のテーマソングじゃないんですか?
「チャッキリ娘が、飛び出~し~た~♪」……って、チャッキリ娘を知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。
だから、うちの爺ちゃんがファンだったんですよ。