ドボ鉄066両国駅と隅田川橋梁

絵はがき:総武本線・両国駅(東京都墨田区)


 秋葉原駅をはさんで中央本線と総武本線を結ぶ御茶ノ水-両国間の高架線は、鉄道省東京第一改良事務所と東京第二改良事務所により1931(昭和6)年2月に着工して、1932(昭和7)年7月1日に開業した。延長約3kmの高架線には、さまざまなデザインの鋼橋や高架橋が建設され、戦前の鉄道土木技術の到達点を示す存在となった。
 隅田川に架設された隅田川橋梁もそのひとつで、鉄道省大臣官房研究所第四科長と東京帝国大学教授を兼任した田中豊博士の設計により、鉄道橋としては初めてのゲルバー式ランガー橋として完成し、中央径間は支間96.0mに達した。田中豊は、1933(昭和8)年に鉄道省を退官して、その翌年に東京帝国大学教授専任となるので、隅田川橋梁は、鉄道省時代における田中豊の総決算でもある。
 「機上ヨリ見タル両国橋及国技館・両国駅」と題した絵葉書には、下流側から道路橋の両国橋、御茶ノ水-両国間高架線の隅田川橋梁、そのさらに上流に道路橋の蔵前橋がおさめられている。両国橋の対岸のやや右上に見える丸屋根の建物が当時の国技館で、隅田川橋梁の右側にある細長い屋根が両国駅のプラットホームである。
 隅田川橋梁と蔵前橋の間の左岸にある横網町公園は、1923(大正12)年に発生した関東大震災の熱旋風で約3万8000人の焼死者を出した陸軍被服廠の跡地で、1930(昭和5年)に伊東忠太の設計による震災記念堂(現在の東京都慰霊堂)が建てられ、翌年には復興記念館が完成し、犠牲者の霊を慰めつつ当時の惨状を今日に伝えている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2017年9月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

両国駅の北側に行止まりのホームがありますが、何に使っているんですか?

A

3番線ホームのことですね。開業時には2面の頭端式プラットホームがあって、房総方面の長距離列車の始発駅として使用していました。その後、総武快速線や京葉線の開業で長距離列車は東京駅へ直通できるようになったため廃止され、3番線だけが残っていて臨時列車の発着などに時々使われています。通路は、「両国ステーションギャラリー」として整備され、現在は「両国駅歴史展」という歴史展示コーナーに利用されています。(小野田滋)


”両国駅と隅田川橋梁(東京都墨田区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

地図で見たら、両国には芥川龍之介も住んでいたんですね。「芥川龍之介生育の地」ってありますよ。

師匠

芥川の幼なじみに「本間の徳ちゃん」という子供がいて、幼少期の思い出話を綴った『本所両国』『追憶』などの随筆に登場する。

小鉄

どんな子なんですか?

師匠

『追憶』では、「徳ちゃんは確か総武鉄道の社長か何かの次男に生まれた、負けぬ気の強い餓鬼大将だった。」と紹介されている。

小鉄

ってことは、総武鉄道の社長の息子ってことですか?

師匠

「徳ちゃん」は総武鉄道の社長だった本間英一郎の次男だ。

小鉄

お父さんの本間英一郎って、どんな人ですか?

師匠

福岡藩の留学生としてアメリカへ派遣され、日本人で最初にマサチューセッツ工科大学を卒業して、1874(明治7)年に帰国した人物として知られている。

小鉄

ええっ、そんな時代にもうアメリカの名門大学へ留学してたんですか?

師匠

帰国後に鉄道寮に入って、碓氷峠の鉄道工事などで活躍した。

小鉄

そのあと総武鉄道の社長になったんですか?

師匠

そうだ。総武鉄道は、今の総武本線の元になった鉄道会社だ。

小鉄

その頃の両国の様子は、どうだったんですか?

師匠

『本所両国』では、「本所七不思議」の「おいてけ堀」や「片葉の葦」に絡めて、不気味な場所として紹介されている。

小鉄

「おいてけ堀」って、たしか「ゲゲゲの鬼太郎」でも登場しましたよ。

師匠

芥川龍之介は怪談好きで、『妖婆』とか『奇怪な再会』など怪談話をいくつか書いてるくらいだ。

小鉄

子供の頃の両国の体験が、作品の原点だったってことですね。

師匠

芥川が住んでた頃の両国には、まだ百本杭が残っていたらしい。

小鉄

「ひゃっぽんぐい」って何のことですか?

師匠

隅田川の水流から護岸を護るために、江戸時代に打たれた木杭のことだ。両国橋の絵葉書にも写っている。

小鉄

うわっ!なんだか隅田川から、ゾンビの群れが現れたみたいな絵葉書ですね。

師匠

芥川は、総武鉄道の線路工夫が、宵闇に幽霊を見て気絶したという噂話も書き残しているぞ。

小鉄

かんべんしてくださいよ。僕は幽霊に弱いんですから。

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