ドボ鉄072トンネル工事の機械化

絵はがき:飯田線・大原トンネルと大嵐駅(浜松市天竜区)


 天竜川中流に位置する佐久間ダムの建設は、戦争で停滞していた日本の土木技術にとって、復興の足がかりとなった大プロジェクトであった。事業は1952(昭和27)年に発足したばかりの特殊法人である電源開発(現在は完全民営化されてコミュニケーションネームを「J-POWER」と称する)が行い、堤高155.5mの重力式ダムは、当時の日本最大規模を誇った(現在でも重力式では第4位)。工事は、1953(昭和28)年4月に着工し、1956(昭和31)年10月に竣功した。
 佐久間ダムの建設に伴って、ダム湖(佐久間湖)に水没する飯田線の中部天竜~大嵐(おおぞれ)間に延長約18.5kmの別線を建設することとなった。別線は、中央構造線に沿った急峻な山岳地形を克服しなければならず、工事は電源開発から日本国有鉄道に委託された。国鉄では1953(昭和28)年8月に現業機関として飯田線工事事務所を設置し、1953(昭和28)年12月に付替工事に着手した。
 わが国におけるトンネル工事の機械化施工は、戦前の上越線の建設工事などで試みられていたが、一部のトンネルに限られ、普及するまでには至らなかった。水窪~大嵐間の大原トンネル(延長5,063m)では、ブームドリルジャンボ、ずり積機、コンクリートプレーサー、テレスコピック型枠など、アメリカから導入した大型施工機械を駆使し、全断面掘削や鋼製支保工を併用して、最大日進12m、月進265mを達成した。飯田線付替工事は工期38カ月の予定を大幅に短縮する工期23カ月で完成し、1953(昭和28)年12月16日に起工して、1955(昭和30)年11月11日に竣功して新線へ切替えられた。
 1956(昭和31)年7月21日、工事の完成を記念して、大原トンネルの出口の傍らに「中部天竜大嵐間付替線完成記念碑」が建立された。記念碑は、ずり積機(アメリカのグッドマン社製・コンウェイ100型)のディッパー(dipper、「バケット(bucket)」とも)をモチーフにしたモニュメントを中心とし、左側を慰霊碑、右側を竣功碑としており、「慰霊」の文字は藤井松太郎国鉄技師長、「竣功」の文字は高原芳夫国鉄建設部長の揮毫によるものである。ちなみに、大原トンネルの坑門には、十河信二国鉄総裁の揮毫による「大原隧道」の扁額が掲げられた。
 慰霊碑側には、この工事で殉職した30名の氏名が、竣功碑側には田中武夫飯田線工事事務所長による工事の経緯と、施工にあたった7社の会社名が列記された。大原トンネルで実用化された鋼製支保工と機械化施工の組合せは、その後の山岳トンネル工事の標準工法となり、NATMが普及する1970年代の後半まで、新幹線のトンネルや青函トンネルなどに継承された。
 また、飯田線工事事務所が工事完成を記念して発行した「飯田線中部天竜大嵐間線路付替開通記念」の絵葉書には、絵葉書とともに工事概要、線路平面図に加え「付替工事の特色」と題した一文が添えられ、①工事量が多いこと、②地質が悪いこと、③工期が短いことの3点をこの工事の特色として強調した。
 佐久間ダムの建設は、戦後の電力エネルギー確保の出発点となるプロジエクトとして大きな意義があったが、これに伴う飯田線の付替工事も、戦後の鉄道トンネル技術の出発点となった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2011年2月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

テレスコピック型枠って何のことですか?

A

テレスコピック(telescopic)は本来「望遠鏡(telescope)の~」という意味ですが、転じて「伸縮自在の~」という意味があります。トンネル工事では、最後の仕上げとして覆工コンクリートを打設して完成しますが、その際に使用するコンクリートの型枠のことを「セントル」と呼んでいます。セントルには、固定式型枠と移動式型枠がありますが、従来の型枠は固定式が用いられ、組立と解体を繰返しながらコンクリートを打設していたため、「バラセントル」とも呼ばれていました。移動式型枠には、テレスコピック型枠とノン・テレスコピック型枠の2種類があり、前者は養生中の型枠の内部をもう1組の型枠を折畳んでくぐり抜ける構造となっており、後者は単に移動するのみの型枠です。移動式型枠の導入により、セントルの組立・解体時間が省略され、工期の大幅な短縮に貢献しました。(小野田滋)


”飯田線・大原トンネルと大嵐駅(浜松市天竜区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

飯田線は単線だと思ってましたけど、大原トンネルは何で複線なんですか?

師匠

いいや。単線だ。

小鉄

だって大嵐駅の手前の大原トンネルの出口は、単線にしては大きな断面になってますよ。

師匠

線路付替工事の時に、大嵐駅も今の位置に移転したが、同時にプラットホームの長さを114mに伸ばした。

小鉄

ちょうど4両編成の電車が停車できる長さですね。

師匠

ところが、新しい大嵐駅はトンネルに挟まれた場所だったから、分岐器の位置がトンネル内に食い込むこととなってしまった。

小鉄

それは困りましたね。

師匠

そこで、新しく掘った豊橋方の大原トンネルは、坑口付近だけ断面を拡大したんだ。

小鉄

大原トンネルは新しく掘ったトンネルだからできたんでしょうけど、辰野方の第1大嵐トンネルはどうしたんですか?

師匠

古いトンネルをそのまま使って、豊橋方の坑口付近だけを断面改築して拡げた。

小鉄

それで、大嵐駅のプラットホームは大きな断面のトンネルに挟まれているんですね。

師匠

大嵐駅の近くには、工事のモニュメントや旧線の廃線トンネル、大原トンネルを建設した時の横坑跡などが残っているぞ。

小鉄

秘境駅だから、周りに何も無い駅かと思ってました。

師匠

何も無い駅どころか、見所満載の駅だ。

小鉄

彦摩呂師匠風にまとめてくださいよ。

師匠

「大嵐駅はドボ鉄の宝石箱や~」って何を言わせるんだ💢

工事概要歴史論文見学会記事(pp.16-24)
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