わが国におけるシールドトンネルの歴史は、1921(大正10)年の羽越線・折渡トンネルに始まり(ドボ鉄026参照)、戦前は丹那トンネルの水抜坑と、関門トンネル本坑で用いられた。このうち関門トンネルでは、下り線の726m区間と上り線の405m区間に適用され、1938(昭和13)年6月にまず下り線のシールドが掘削作業を開始した。シールド掘削機の大きさは、外径7.2m、長さ5.1mで、三菱重工業神戸造船所で製作された。
「シールド式工法掘進の景」と題した絵葉書には、シールド掘削機が立体的に描かれ、内部のメカニズムをヴィジュアルに伝えている。当時のシールド掘削機は、切羽の掘削面が露出した開放式と呼ばれる方式で、図ではシールドの水平作業台に作業員が乗って、手掘りで掘削している様子がよくわかる。
また、関門トンネルでは止水のために圧気を併用したが、この図ではシールド掘削機の後部に気圧調整用のマンロックとマテリアルロックが併設されている。しかし実際の関門トンネルでは、これらの設備は後方に隔壁を設けて別に設置しており、シールド工法の原理を分かり易く説明するためにアレンジして描いた可能性がある。
解説文をよく読むと、「ブルネル」が「プルーネル氏」、「セグメント」が「セブメント」となっていて少々怪しいが、工法の由来から潜函病に至るまで、一般向けに要領よくまとめられており、多くの国民がこの絵葉書によって初めてシールド工法を知ったのではないかと想像される。
当時は診しかったシールド工法も、戦後は地下鉄工事などで急速に発展し、世界的レベルに達したことは言うまでもない。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2008年3月号掲載)
Q&A
トンネル工事で圧気を使うと、どんな効果があるんですか?
湧水が多い地山では、掘削現場の気圧を高くし、水圧に抵抗して湧水を抑えることによって、切羽(きりは/掘削面)を安定して掘削することができます。高い気圧の中で作業をするため、作業員の健康管理や労働条件が法令で厳格に定められているほか、気圧を高くし過ぎると地盤によっては漏気や噴発(地盤から急激に空気が噴き出すこと)が生じることがあります。(小野田滋)
”関門トンネル(山口県/福岡県)”番外編
師匠、関門海峡に鉄道を敷くアイデアは、いつ頃からあったんですか?
1883(明治20)年に笠井愛次郎という土木技術者が、九州鉄道の計画を検討した際に、橋を架けて鉄道を通すことを考えた。
最初は橋を架けるつもりだったんですね。
その後、1900(明治33)年に山縣信吉という土木技術者が、海底トンネルを提案した。
それが今回紹介されている平面図と断面図ですね。
ほぼ、今の関門国道トンネルや山陽新幹線新関門トンネルと同じルートだ。
歴史は繰り返すんですね。
1910(明治43)年には速見太郎が「関門架橋論」を著して、これをきっかけに関門架橋電気鉄道という会社が設立された。
実現に近づきましたね。
しかし、あえなく却下されてしまった。
残念ですね。
その後、1911(明治44)年に鉄道院総裁の後藤新平が、関門海峡を結ぶ鉄道のために、橋梁の設計を東京帝国大学の廣井勇教授に、トンネルの設計を京都帝国大学の田辺朔郎教授に委嘱した。
土木界のビッグボス登場ですね。
結局、架橋案は防空上の問題があるため、トンネル案に絞られた。
橋は目立つから目標にされやすいですよね。
戦時中にアメリカ軍が関門トンネルの空爆を試みたが、トンネルの深さが解らなかったので攻撃の手を免れたといわれている。
絵葉書にも「下関要塞司令部許可済」ってあるから、軍事的にも重要な場所だったんですね。
戦後に進駐した連合軍が、鉄道関係者に最初に尋ねた質問が「関門トンネルは無事か?」だったというエピソードがある。
戦後の復興にも役立ったんですね。
戦争中の困難な時期に、関門トンネルを完成させたことが、戦後復興にも役立った。
関係者の苦労が報われたってことですね。
土木構造物の寿命は長いから、社会環境が変化しても使い続ける工夫をして、人々の生活に役立てることが大切だ。
師匠もたまには良いこと言いますね。
「たまに」は余計だ。