ドボ鉄092成田をめざして

絵はがき:京成電気鉄道・江戸川橋梁(千葉県市川市/東京都江戸川区)


 東京と成田、千葉を結ぶ京成電鉄の歴史は、1909(明治42)年に東京~成田間の鉄道敷設を目的として、京成電気軌道が設立されたことに始まる。
 工事は、押上~市川新田(現・市川真間)を第1期線として開始され、1912(大正元)年には押上~伊予田(現・江戸川)間が開業したが、全長226mの江戸川橋梁の架設工事は予想外に手間取ったために工程が遅れ、陸軍の鉄道連隊の支援を受けてこれを完成させた。江戸川橋梁は1914(大正3)年8月に完成し、同年8月30日に伊予田(同日移転して江戸川に改称)~市川新田(現・市川真間)間が開業した。
 「鉄道連隊江戸川架橋」と書かれた絵葉書には、木製足場を組んで架設工事を行っている江戸川橋梁のトラスが写り、キャプションから鉄道連隊により工事が行われたことが理解できる。別の絵葉書には、京成電気軌道の初代社長となった本多貞次郎(1858~1937)を囲んだ記念写真があり、この橋梁の完成に社運をかけた本多の意気込みが伝わってくる。
 開業時の江戸川橋梁は単線で、径間構成は押上方から支間14.9mの上路プレートガーダ+支間37.8mの下路プラットトラス×5連で構成されていたが(したがって絵葉書は右岸側(押上方)の上流から撮影)、1924(大正13)年の河川改修工事で川幅を広げたため、押上方に支間37.8mの下路プラットトラス×6連を追加した。さらに、1926(大正15)年には下流側に同一径間構成、同一形式の単線橋梁を増設し、上流側を下り線、下流側を上り線として使用し、単線並列で複線化された。
 同年には創立時の目的地であった成田までが開業し、1933(昭和8)年には上野公園への地下線も完成して都心へ乗り入れた。当初は、成田山新勝寺への参詣客を輸送する目的で敷設された鉄道であったが、現在では成田空港へのアクセス鉄道としての役割も担い、2010(平成22)年に開業した成田高速鉄道アクセス線とともに成田空港への足として機能している。
また、江戸川橋梁は、1980(昭和55)年に下流側に新しい複線ワーレントラスを架設して架替えられ、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2011年3月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

鉄道連隊とはどんな組織ですか?

A

鉄道は大量の物資を迅速に運ぶための手段として発達し、軍事的にも兵器や物資、兵員を運ぶ手段として用いられました。戦地における鉄道の建設、復旧、輸送などに従事するために旧日本陸軍によって1896(明治29)年に鉄道大隊として創設されました。日露戦争後の1907年(明治40年)に鉄道連隊に昇格し、さらに1918(大正7)年に第2連隊が発足しました。千葉県の津田沼付近に演習地を設けて軽便鉄道を敷設し、平時は訓練を兼ねて各地の鉄道建設や関東大震災の復旧などにも従事していました。戦地では恒久的な使用を前提とした鉄道ではなく、迅速に建設ができる仮設の鉄道が必要とされたため、通常の鉄道建設とは異なる特別な訓練が必要でした。終戦とともに組織は消滅しましたが、迅速に鉄道を開通させる技術は、戦後の鉄道の災害復旧工事にも活かされました。また、現在の新京成電鉄の線路の一部は鉄道連隊の演習線の廃線敷を再利用していて、訓練のために設けられた不自然な曲線が見られます。(小野田滋)


”江戸川橋梁(千葉県市川市/東京都江戸川区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

記念写真の中央に羽織袴の人物が写ってますが、この方が本多社長ですか?

師匠

この時はまだ専務取締役だったが、社長は空席だったから実質的な社長職だった。のちに正式に初代社長となった人物だ。

小鉄

足場も何もない鉄橋の上で記念写真を撮るなんて、高い所でも平気だったんですかね。

師匠

本多貞次郎は、かつて東海道本線の建設に従事していたから、工事現場には慣れていたのかもしれないな。

小鉄

まわりの人たちは、鉄道連隊の軍人ですか?

師匠

そうだ。現在の習志野市のあたりに連隊の演習地があって、今でも煉瓦の門柱が残っている。

小鉄

この千葉工業大学の通用門がそれですね。

師匠

国の登録有形文化財にも登録されている。

小鉄

門だけでも文化財になるんですね。

師匠

門は入口だから、それなりに立派なスタイルが好まれる。「尊い寺は門から知れる」ということわざもあるくらいだ。

小鉄

なるほど。たしかにうちのアパートの門は安っぽいですね。

師匠

「尊い寺」ではないから、あれで充分だ。

補修工事概要
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