「ゆらり」と燭台のうえで踊る小さな灯り。内子の重厚な家屋に小さく温かい灯りのダンスはよく似合う。
電気のない時代、蝋燭は貴重な光源であり、質の高い蝋燭には大きな需要があった。そこに商機を見出した芳我孝芳は、江戸時代末期、伊予式箱晒法を考案し、巨万の富みを得た。同製法は、加熱して溶かした蝋を不純物と分けて水に落とし、水中で固まった蝋を蝋蓋と呼ばれる木箱に集め、それを日光に晒す。この行程を繰り返すことで、芳我は白く透き通った良質な蝋をつくりだすことに成功した。その評判は全国に広がり、最盛期には芳我家で蝋蓋5万枚、分家の上芳我家で同2万4千枚、下芳我家で1万5千枚生産されるなど、喜多郡(現内子町)の蝋燭の生産量は国内の4割近いシェアを占めたとされる。
本芳我家、上芳我家をはじめ、蝋燭の生産で隆盛した各家は松山街道や四国遍路道など大洲と松山を結ぶ街道沿いに漆喰塗込の重厚な建物をつぎつぎと建設していった。同家屋の外壁は地元産の黄土で仕上げられ、白色の漆喰とのコントラストがいまなお美しい。明治中期になると、電気の普及に伴い蝋燭の生産は減少したが、外部の漆喰壁のさまざまな彫刻や、腰に瓦を張った海鼠壁をはじめ、商人たちは競い合うように豪華な家屋を建設した。大正から昭和初期にかけて家屋のつくりは真壁造の形式に代わったが、これらの意匠もまた塗込造の家に引けを取らない立派なものである。きっと、いつの時代も町並への誇りがそうさせたのであろう。
内子のまちは、まちなみの誇りという名の<DNA>を<細胞>に刷り込み、<新陳代謝>を繰り返す装置なのである。(白柳)
参考文献
内子町誌編纂委員会:うちこ時紙草 Ⅰ 文化編,内子町,2016.
えひめ地域政策研究センター:愛媛温故紀行 明治・大正・昭和の建物,アトラス出版,2003.
愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門:内子の町並と人々のくらし,1966.
種別 | 街並 |
所在地 | 愛媛県内子町内子 |
備考 | 重要伝統的建造物群保存地区 |