四国インフラ053 重信川

かつての暴れ川も 今や松山平野の骨格に


松山平野には、愛媛県高縄山系の三方ヶ森付近を源流とする石手川と、愛媛県東温市の東三方ヶ森を源流とする重信川の2つの河川があり、松山中央公園付近(松山城より南)で合流し、松山空港南の伊予灘に注いでいる。この松山平野の<背骨>となる重信川は、約400年前の川筋は現在と異なり、伊予川という名で豪雨の度に氾濫を繰り返していた。当時の松山城主加藤嘉明に改修を命ぜられた家臣の足立重信の功績は大きい。慶長初年(1595)年に松山城市を洪水から護るため、伊予川の下流12キロメートルの河道改修および堤防を築き、以後は伊予川を重信川と呼ぶようになった。また、慶長6(1601)年頃に松山築城が計画された際に、城山南麓を流れるもう一つの暴れ川であった石手川の流路を南方に迂回させて水制工事を施し、堅固な堤防を築いて松山城下町を開発した。このように、かつての2つの暴れ川も今では都市を支える<骨格>として機能している。

足立重信の墓前に設置された二基の灯篭には、

「功や三百年の水も春」(内藤鳴雪)

「寶 川伊豫川の秋の出水哉」(村上霽月)

いう句が刻まれており、松山平野の骨格としての重信川が形成されたことへの功績がたたえられた。

また、この川は河川敷が広く、一部には公園が整備されており、秋になると芋煮という郷土料理を囲む人々の姿が見られるなど、市民の憩いの空間としても親しまれている。(片岡)

(赤色立体地図:アジア航測株式会社 国土地理院承認番号 平28情使第1285号 / 航空写真:Google Earth)

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参考文献

愛媛県史編さん委員会:愛媛県史 近世上(第19回発行),愛媛県,pp.111-112,1986.

 

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