四国インフラ062 芸予要塞小島砲台跡

出番がなかった<免疫系>


明治初頭、欧州列強の艦船に備えるため、政府は沿岸要塞構築の検討を開始した。艦船が瀬戸内海に侵攻するためには、紀淡、鳴門、豊予、下関、これら4海峡のいずれかを通らなければならない。このうち、豊予海峡だけは海峡幅が広く、当時の要塞砲の射程では艦船の海峡通過を阻止することができなかった。そこで、瀬戸内海に侵入した艦船を砲撃することを目的に芸予海峡における要塞が建設された。

工事は明治31(1898)年3月に着手、急ピッチで進められ、明治35(1902)年2月に総工費約28万円、現在の貨幣価値で600億円程度をかけ全てが完成した。しかし、同要塞が使われることはなかった。要塞内の中部砲台に配置されていた砲身のみ、日露戦争の際旅順に運ばれ、203高地の攻撃に使用されたとされるが、巨費を投じて築造された<白血球>は、ついにその機能を発揮することなく、今日も眼光鋭くも心穏やかに瀬戸内海の小島でその余生を送っている。(白柳)

 

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参考文献

阿部貴弘:砲台の島,土木学会誌,Vol.87,No.8,2002.

種別 軍事施設
所在地 愛媛県今治市小島
竣工 明治35(1902)年
土木学会選奨土木遺産
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