四国インフラ063 今治城・吹揚公園

<循環器系>機能のアップデード


「ちゃぷぅーっん、ちゃぷぅーっん。」潮風が掘りの水面をゆらす夕方。ランドセルを背負った一団が堀沿いの柵から身を乗り出し、水中を泳ぐ魚を食い入るように見つめている。今治の風景だ。

城内に舟入を備えた日本屈指の海城「今治城」は、藤堂高虎により慶長7(1602)年に着手、同13年頃に完成した。城内では、法令をはじめとしたさまざまな決定が下され、まさに今治の<脳>として機能していた。今治城の城下町は、南西に控える山々を背に北東方向の海に開き、港からあがった物資を海岸に沿って運ぶため、北西方向にまっすぐ街道が通された。そう、<脳>に養分を運ぶために<血管>が張り巡らされたのだ。同街道は港を起終点に物資や人を循環させる<大動脈>として機能し、その賑わいは伊予の小長崎と呼ばれるほどであった。

明治維新後、石垣、内堀を残してほとんどの建築物は破却されたことで今治城の<脳>としての機能は潰え、木が生い茂り、まちへと酸素を供給する<肺>へとその役割を変えた。大正12(1923)年には、街道筋と離れた山側に鉄道駅が建設され、これに端を発し、北東方向に新たな<大動脈>広小路通りがつくられた。同通りは、鉄道駅から旧城下町、そして港へとつながる新時代の<大動脈>となることを期待されて12間幅(約22m)でつくられたが、その形は「奇形」であった。駅前から真っ直ぐ旧城下町域へとむかい、旧城下町との接点で屈曲してから旧城下町内の街路とむすびつけられていたのだ。ただこの屈曲、市民が集う新しい都市の中心となることを期待し、意図的にして計画されたものだった。屈曲のまわりには市役所や小学校といった官公庁が配置され、賑わいをみせたという。後の震災復興計画や都市計画街路の整備でもその意図は踏襲され、いまは市役所やバスターミナルなどが囲む今治のへそとなっている。

今治は、人や物資の運搬経路に手を加えることで自身の成長を促してきた驚くべき生命体なのだ。(白柳)

この物件へいく
参考文献

佐藤滋:城下町の近代都市づくり,鹿島出版会,1995.

種別 公園
所在地 愛媛県今治市通町
竣工 慶長13(1608)年頃
Back To Top