愛知県の知多半島中央部、知多半島道路沿いの標高の高い丘陵地に水田が広がっています。この風景は、よく考えると少し不思議です。背後に山もないのに用水はどこから来るのか、丘陵地の上で田んぼの水は漏れないのでしょうか。
これには知多半島の地質が関わっています。シルトや粘土分の多いこの地域では、雨水が浸み込み難いため地中に蓄えられず、速やかに海へ流れ去ってしまい、使える水が乏しくなります。そこで、ため池を築造して水田を営んできました。水が浸み込み難い地質ですから水田耕作に向いていて、ため池には貯水し易かったのでしょう。ため池の堤防を築く技術から黒鍬衆と呼ばれる土木集団が生まれ、他の地域でも種々の土木工事に従事したことが知られています。
この地質はどのようにできたのでしょう。濃尾平野の周辺ではホルンフェルスの基盤岩が、西が沈降して東が上昇する動きをしています(濃尾傾動地塊)。その東部は猿投-知多上昇帯となり、500万年ほど前の東海湖に堆積した土砂が岩石となるまでに至らずに上昇してきたために生じた東海層群の地質なのです。
知多半島では、ため池によるかんがいは江戸時代から多く行われてきましたが、明治に入りさらに多くのため池が築かれるようになり、1万を超える数があったという調査結果があります。知多半島は降雨量の少ない地域という訳ではありませんが、渇水の際にはやはりため池だけでは水不足となり、大変な苦労を伴うため、戦後に木曽川から水を引こうとする愛知用水の運動が起こりました。この頃には米国のテネシー河域総合開発(TVA)の成果が伝えられていて、その影響が見られます。愛知用水も木曽川の総合開発として、水源のダムを建設し、農業だけでなく都市用水の供給も併せて行う事業となり、昭和30年代に実現します。このため世界銀行からの借款による資金の調達が行われています。さらに昭和36年には水源を木曽川上流王滝川の牧尾ダムに求め、延長112kmの幹線水路により、名古屋市の東の丘陵地帯から知多半島に至る地域への用水供給が開始されます。
実は愛知用水建設の当初より、愛知県内でその後発展する自動車産業界も関心を示していたようです。世界銀行の調査団が来日した際の記録からそのことが伺えます。知多半島北部の伊勢湾側には臨海工業地帯が造成され、製鉄所が誘致されて高炉が操業を開始しました。当初計画と比べてかんがい面積が年々減少したことに対して、工業用水の供給の必要性は増大し、さらに地域の都市化によって水道用水の供給も増えたため、愛知用水は農業用水の一部を都市用水へ次第に転換していきます。その結果、この臨海工業地帯の製鉄所は自動車用薄板鋼板製造の一大拠点となり、自動車鍛造部品製造の製鋼所も設立され、愛知用水の水によって生まれた製品が供給されているのです。
知多半島の地質やため池かんがいからつながっている愛知用水からの都市用水の供給は、いまや自動車産業を支えるインフラの一つとなっています。