瀬戸物の
ものがたり

瀬戸物は、平安時代にはすでに中央市場向けに多く生産されていたとされる。瀬戸の窯業は、明治維新を境に殖産興業政策を受け、従来の窯株制度や蔵元制度などの封建的な制度から解放されて自由販売ができるようになる。

しかし、維新の際の軍費・人足の負担・天候の異変が重なり、さらに明治33年の中央本線に瀬戸を経由させる誘致にも失敗するなど、むしろ明治初期の窯業は不振に陥っていた。そのような局面から瀬戸の陶器商、加藤杢右衛門らは、1902年に瀬戸自動鐵道を開業し、1911年には中央本線大曽根駅に電車を接続することに成功した。明治後期から大正にかけては、加藤孫右衛門らの尽力により、開港された名古屋港を経由して輸出するための陶磁器生産がはじまり、好景気が続いた。

明治44年には瀬戸電気鉄道へと改名した路線を名古屋城下の堀川まで伸ばしたことにより、名古屋港へのよりスムーズな運搬が可能となる。 瀬戸ではもともと工場制手工業によって、分業によって陶磁器生産していた。しかし1904年に森村組が日本陶器合名会社を名古屋の則武に設立すると、攪拌機などの大型の機械が導入され、それらが瀬戸の素地土調整場にも供給されたため、機械工業が主流となる。このように、瀬戸電気鉄道は名古屋港へ向けた製品の搬送動線としてだけでなく、陶磁器生産地域間の工程にも利用され、瀬戸陶磁器生産販売組合が地域内外の営業者向けに素地土の販売も行った。瀬戸物も土も売れたのである。

瀬戸物に関わるインフラ