わが国における鉄道博物館の構想は、明治末年から進められていたが、具体化したのは1919(大正8)年、鉄道院総裁官房研究所長に橋梁工学の権威・那波(なわ)光雄が就任してからであった。那波は、「科学知識の普及」を目的とした斬新な博物館を目標にその準備を進め、1910(明治43)年に竣工した東京~神田間の銭瓶町橋高架橋の高架下を利用し、鉄道開業50周年の記念日にあたる1921(大正10)年10月14日にこれを開館させた。
「鉄道博物館正門」と題した絵葉書には、煉瓦アーチ式高架橋の下に開館したばかりの博物館の入口があり、高架橋には展示用の古典蒸気機関車が並べられている様子が写っている。鉄道博物館は、陳列品を静かに鑑賞する従来の博物館と異なり、実物に手を触れたり模型を動かすことのできる博物館としてたちまち人気を集めた。
こうして開業した鉄道博物館は、官房研究所(現在の鉄道総合技術研究所)の組織として運営され、研究所長が博物館長を兼ねていたが、戦後には日本交通公社へ移管されたほか、1936(昭和11)年に万世橋に移転した。
その後、交通博物館として多くの人々に親しまれた万世橋の博物館も、2006(平成18)年5月に閉館し、翌年10月14日、鉄道博物館としてさいたま市にオープンした。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2007年11月号掲載)
Q&A
「官房研究所」というのは、今の鉄道総合技術研究所の前身ですか?
そうです。なんだかいかめしい名前ですが、今でも各省庁には「大臣官房」とか「長官官房」という組織があって、大臣や長官直属で総務的な役割を果たす部局として機能しています。むかしの鉄道院は「総裁官房」、鉄道省は「大臣官房」と称して、研究所のような独立性、専門性の高い組織も「官房」の中に含めていました。
帝国鉄道庁では、1907(明治40)年に鉄道調査所という組織を設けますが、これが鉄道院総裁官房研究所→鉄道省大臣官房研究所→日本国有鉄道鉄道技術研究所と組織が変わって、現在の公益財団法人鉄道総合技術研究所に継承されています。ただ、博物館を管理する業務は、昭和戦前期に切り離されたので、今は博物館とは別の組織となります。(小野田滋)
”銭瓶町橋高架橋”番外編
師匠、大発見です!
何だい。
高架橋の横に付いているこの円盤ですが、真ん中あたりのここだけ2枚ありますよ。あとは1枚だけなのに。
お前さんも、いいとこに気がついたな。この円盤は「メダリオン」と呼ばれていて、メダリオンが2枚のところは1枚のところより柱が少し太くなっている。耐震強度を高めるために、数カ所おきに柱を太くしたんだ。
なるほど。メダリオンはその目印ですか。
目印と言えないこともないが、メダリオンそのものは単なる装飾だ。
単なる装飾なら、絵皿でも良かったんじゃないですか?
もともと、高架橋のモデルになったベルリンの高架橋にも似たような装飾があったんだよ。
柱の太さでお皿の絵柄が変われば、まるで回転寿司ですね。
お前さんは、100円皿専門だろう。