貝塚~西鉄新宮間を結ぶ延長11.0kmの西日本鉄道貝塚線の歴史は、1924(大正13)年、博多湾鉄道汽船により開業した福岡~和白間の路線にさかのぼることができる。貝塚~名島間にある名島川橋梁(河川名は「多々良川」)は、この際に建設された橋長211.8mの鉄筋コンクリートアーチ橋で、径間長12.0mのアーチを16径間にわたって連続させた。
アーチ橋の設計は、かつて鉄道院東京改良事務所に在籍し、東京~万世橋間の高架橋を手がけた阿部美樹志(1883~1965)によるもので、1920(大正9)年に鉄道院を辞して設計事務所を設立したばかりの頃であった。東京~万世橋間の高架橋では、東京~神田間に径間長38.1mの外濠橋梁を架け、鉄筋コンクリートアーチ橋としては当時の最大径間を誇ったほか、従来の煉瓦アーチ高架橋をさらに進化させ、鉄筋コンクリート連続アーチによる高架橋を主体とし、一部ではラーメン構造を試みた。
「多々良川拱橋」と題した絵葉書には、多々良川を渡る博多湾鉄道汽船の蒸気機関車を捉えおり、規則正しく並んだアーチ橋は、スパンドレル(アーチの間の三角小間)の縁取り模様などに東京~万世橋間の高架橋と共通するデザインを観察することができる。博多湾鉄道汽船は、1942(昭和17)年に九州電気軌道などと合併して現在の西日本鉄道となったが、名島川橋梁は今も多々良川の水面に、絵葉書の頃とほとんど変わらぬその姿を映し続けている。(小野田滋) (「日本鉄道施設協会誌」2008年11月号掲載)
Q&A
設計者の阿部美樹志さんって、どんな方ですか?
阿部美樹志さんは、1883(明治16)年に岩手県一関市で生まれて、1905(明治38)年に札幌農学校土木工学科を卒業したのち、鉄道院に入りました。1912(明治45)年にアメリカへ官費留学してイリノイ大学に進学し、鉄筋コンクリート工学の権威だったアーサー・タルボット教授の下で学びました。博士号を授与されたのちに帰国して鉄道院に復職し、東京と万世橋の間の鉄筋コンクリート高架橋の工事に従事しました。
1920(大正9)年に鉄道院を辞めて、個人の設計事務所を開設して、最初に手がけたのが今回の名島川橋梁です。その後も、私鉄の鉄筋コンクリート高架橋を手がけましたが、阪急百貨店、東京宝塚劇場、西宮野球場など建築物も多数手がけて、建築家としても有名です。また、浅野混凝土(コンクリート)専修学校(現在の浅野工学専門学校)や海外土木興業(現在の竹中土木)など教育家、実業家としても知られ、戦後は貴族院議員、戦災復興院総裁を務めるなど産学官で縦横無尽に活躍したスーパーマンのような方です。(小野田滋)
”多々良川拱橋”番外編
師匠、この「拱橋」ってどう読むんですか?
「拱」の字は「きょう」と読むから正しくは「きょうきょう」となるが、語呂が悪いので一般には「こうきょう」と訛って読む。昔の土木工学の専門書などでも、そうふりがなが振ってある。
「拱」はどんな意味なんですか?
アーチという意味の漢字だ。
ってことは、「拱橋」と書いて「アーチ橋」って意味ですね?
その通り。今ではめったに使わない漢字だが、昔の土木工学の専門書にはしばしば登場するから、覚えておくと良いぞ。
「拱」にはアーチ以外にも、何か意味があるんですか?
この漢字は「こまねく」とも読む。中国語では「胸の前で両手を合わせる」という意味もある。
あっ、中国の時代劇で、よく胸の前で両手を合わせてお辞儀していますね。
そうそう。中国人になったつもりでやってごらん。
なるほど、腕がアーチのような形になりますね。
手を組んだだけで傍観している様子を表す「手をこまねく」という言葉もこれに由来しておる。
中国語でもアーチ橋は「拱橋」なんですか?
そうだ。今日は、中国語の勉強になったな。
謝謝!(シェシェ)