ドボ鉄009防波堤の造形

絵はがき:稚内港北防波堤ドーム(北海道稚内市)


 日本の最北端である稚内市は、鉄道にとっても最北端の地である。この稚内市に、「稚内港北防波堤ドーム」と呼ばれる鉄筋コンクリート構造の防波堤が完成したのは、1936(昭和11)年のことであった。
稚内に鉄道が達したのは、1924(大正13)年であったが、1928(昭和3)年にはさらに約2.5kmほど北に延伸して稚内港駅が開設され、これが現在の稚内駅となった。ここからさらに約850mを延伸し、稚内桟橋駅が開設されたのは1938(昭和13)年であった。当時、稚内と樺太の大泊(現在のロシア・サハリン州コルサコフ)を結ぶ稚泊(ちはく)航路が運航されており、稚内は樺太への玄関口として賑わった。
稚内桟橋駅の開設に併せて周辺施設の整備が北海道庁稚内築港事務所によって行われ、北海道帝国大学土木工学科の第一期生として卒業したばかりの土屋実(1904~1997)がこれを担当することとなった。土屋は、所長であった平尾俊雄の指導を受けながら、ヨーロッパの古典建築を造形のモチーフとして、わが国でも前例が無い鉄道線路を内包する防波堤の設計に取り組んだ。「建設中ノ稚内連絡阜頭の景観」と題した絵葉書には、建設途上の防波堤の姿がおさめられ、列柱が庇(ひさし)を支えている様子がよくわかる。
 終戦とともに稚泊航路と稚内桟橋駅は廃止され、防波堤は老朽化とともに撤去されることとなったが、歴史的モニュメントとしての価値が認められ、原形に忠実に復元された。復元工事は1980(昭和55)年に完成し、鉄筋コンクリート構造の特徴を随所に活かした見事な造形を今日に伝えている。(小野田滋) (「日本鉄道施設協会誌」2012年05月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

設計者の土屋実さんって、どんな方ですか?

A

 土屋実さんは、1904(明治37)年に現在の北海道千歳市で生まれて、北海道帝国大学工学部土木工学科を1928(昭和3)年に卒業し、北海道庁に入りました。稚内築港事務所に配属されて、稚内港防波堤(稚内港北防波堤ドーム)の設計を担当しました。
 のちの回想によれば、海外にも類例がない施設であったため、新米にもかかわらず全てを任され、何の先入観もなく自由奔放な設計ができたと語っています。また、古典的なデザインは、北大で学んだ建築の授業で、古代ヨーロッパ建築の美しさに心を打たれたため、無意識のうちにその意匠を用いたとしています。
 土屋さんはその後、釧路、函館の築港事務所を経て内務省、運輸省の港湾技術者として活躍しました。(小野田滋)


”稚内港北防波堤ドーム”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠、また連絡船ですね。でも、樺太ってロシアじゃないですか?

師匠

今はロシア領だから樺太ではなくサハリンと言うが、当時はその南半分を日本が領有していた。だから国内移動だった。

小鉄

「稚泊」なんて地名、日本にありましたっけ?

師匠

稚泊の「稚」は稚内、「泊」は大泊を表しておる。大泊は今のコルサコフのことだ。

小鉄

なるほど。「青函」「宇高」と同じことですね?

師匠

鉄道会社の名前や、路線の名前は、始発の地名と終点の地名の文字を組み合わせたものがいくつかあるぞ。

小鉄

確かに。仙台と山形で仙山線、八王子と高崎で八高線、東京と千葉で京葉線、久留米と大分で久大線。

師匠

ずいぶん詳しくなったな。

小鉄

任せてください。大阪と福岡で、大福線。

師匠

調子に乗るな。大福が食べたいだけだろ。

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