狭軌鉄道でスタートした日本の鉄道を広軌に改築すべきとする意見は明治時代の中葉からくすぶり、委員会を設置して、その是非や改築方法が検討された。しかし、計画は政変のたびに浮沈を繰り返したあげく、1919(大正8)年に中止が決定した。このため、工事中の建設線などでは改築が困難な構造物をあらかじめ広軌の規格で建設し、「準備工事」として万一に備えた。トンネルでは広軌用断面が採用され、橋梁では広軌の活荷重としてE45(のちのKS20.25相当)を用いた。
東海道本線の豊田町~天竜川間に架かる天竜川橋梁にも活荷重E45で設計されたトラスが用いられ、「天龍川の鉄橋」と題した絵葉書には、1913(大正2)年に複線化した際の上り線の米国製トラス(左側)と、1915(大正4)年に架け替えた下り線の国産トラス(右側)がおさめられた。また、端柱に記されている「19」の数字により、神戸方の第19連目であることが理解できる。
この天竜川橋梁の橋脚は、1944(昭和19)年の東海沖地震で被害を受けて仮復旧したものの、列車運行上問題があると判断され、1968(昭和43)年に架け替えられることとなった。このため、上流側に新しい上り線として平行弦トラスが架設されたが、E45で設計された1913(大正2)年のアメリカ製トラスは荷重に余裕があり、床組に多少の改造を施すだけでさらに継続して使用できると判断され、複線分の幅で完成した新しい橋脚上に旧上り線のトラスを移設して現在の下り線とした。
広軌計画は実現しなかったが、その遺産である天竜川橋梁の下り線は、今も天竜川に19連にわたって曲弦トラスを連ねて壮観である。(小野田滋) (「日本鉄道施設協会誌」2016年04月号掲載)
Q&A
活荷重(かつかじゅう)って何ですか?
活荷重は、橋梁を設計する時に用いる設計荷重のひとつで、動荷重とも呼ばれています。橋の設計は、基本的に橋の長さ(支間)とその上を通過する列車や自動車などの重さに基づいて設計しますが、あらかじめ通過する最も重い荷重を想定します。この仮想荷重を活荷重と呼んでいますが、昔の国有鉄道では蒸気機関車がいちばん重かったので、これが重連で客貨車を牽引しながら通過する荷重を想定していました。鉄道の場合は、レールの上に車輪が載るので、車輪の配置(軸配置)と、通過する車両の重さで活荷重が決まります。
小型の機関車しか走らないローカル線まで同じ活荷重を用いることは無駄なので、線区のランクによってどの活荷重を用いるかを決めていました。使用する活荷重は鉄道会社ごとに決まっていて、電車しか走らない路線では、電車を想定した活荷重を使っています。車両の大きさや重さは、時代とともにも変わるので、そのつど改訂しながら現在に至っています。
ちなみに、英語では「live load(ライブロード)」と称してまさに「活きている荷重」ですが、これに対して橋梁の自重は動かないので死荷重(英語では「dead load(デッドロード)」)または静荷重と呼んでいます。(小野田滋)
”東海道本線・天竜川橋梁”番外編
日本の線路の幅を狭軌(きょうき)に決めてしまったのは、いったい誰なんですか?
大隈重信さんだと言われている。本人自身がカミングアウトしてるんだよ。
人生幸朗師匠だったら「責任者出てこい!」ですよね。
お前さんも随分古い漫才師を知っておるな。さては、昭和の生まれだな。
うちの爺ちゃんが大ファンだったもので……
大隈さんが大正9年に、帝国鉄道協会という会の会長に就任した時の歓迎会のあいさつで、自分が狭軌を選んだと告白しておる。
何で狭軌を選んじゃったんですか?
外国人技師から、線路の幅をどうするか聞かれて、よく意味が分からなかったので、とりあえず安くできる方でいいと決めてしまったらしい。
ずいぶん軽率ですね。
まあ、当時の日本人は、何人かを除いて鉄道のことを全く知らなかったんで、やむを得ないだろう。
大隈さんが決めたことだから、周りの人も納得したんでしょうね。
歓迎会の発言では、大隈さんも自分の失敗だったと認めておる。
それで後から広軌にしたい、という話しになったんですね。
しかし、国有鉄道の広軌計画はなかなか実現せず、我慢に我慢を重ねた末に東海道新幹線でようやく実現することになる。
私もアパートの狭い部屋で我慢に我慢を重ねていれば、そのうち広いマンションに住めますかね?