奥羽本線の北山形を起点として左沢(あてらざわ)までを結ぶ延長24.3kmのJR左沢線は、1921(大正10)年7月に北山形~羽前長崎間、同年12月に羽前長崎~寒河江(さがえ)間が開業し、翌年4月に残る寒河江~左沢間が開業して全通した。左沢線は羽前長崎~南寒河江間で最上川を渡るが、ここに東海道本線で使われていた支間200フィート(約61m)のダブルワーレントラスを、支間150フィート(約46m)に短縮改造して架設した。
200フィートのダブルワーレントラスは、川幅の大きな河川を渡るためのトラス橋としてイギリス人技師の設計に基づいてイギリスで製造され、1889(明治22)年に全通した東海道本線などで用いられた。それまでの標準的な鉄道用トラス橋は支間100フィート(約30m)が最大であったが、これを一挙に拡大した。その後、機関車が大型化して設計荷重が見直されたため、初期に架設された第一世代のトラス橋は架け替えられることとなり、設計荷重の軽い支線や地方鉄道の橋梁、跨線橋、道路橋などに転用された。
左沢線の最上川橋梁は、東海道本線の木曽川橋梁から転用したとされ、5連が使用された。近傍の山形鉄道フラワー長井線の鮎貝~荒砥(あらと)間の最上川橋梁にも同じ経緯で改造・転用されたダブルワーレントラスが3連架かり、ともに明治時代の土木遺産としての価値が認められ、2008(平成20)年に土木学会の選奨土木遺産に認定された。
「羽前寒河江(最上川鉄橋)」と題した絵葉書には、最上川橋梁を渡る蒸気機関車の姿がおさめられるが、後ろに無蓋車らしき貨車を1両のみ牽引し、機関車に数人の人物が添乗しているので、工事中の資材運搬列車か試運転列車と推察される。(小野田滋) (「日本鉄道施設協会誌」2015年7月号掲載)
Q&A
古くなった橋をどこか別の場所で使うことは、よくあることですか?
鉄材料が貴重だった大正時代~昭和戦前期には、鉄道で使わなくなった古い橋梁をローカル線や道路の橋などに再利用することがしばしば行われました。いわば、「橋のリサイクル」です。鉄道橋は蒸気機関車が大型化して、輸送量も増加すると、それに合わせてより頑丈な橋梁に架替えていました。本線に架かっていた橋は、もともと重い蒸気機関車を支えていたので、それよりも軽い車両が走るローカル線や私鉄、道路などでは荷重に余裕があり、ほぼ問題なく使うことができました。
最近では、解体や再整備にコストがかかるため、再利用されることはほとんどなくなりましたが、橋の文化財的価値が認められて、保存と活用を兼ねて公園などに移設されるケースもいくつかあります。(小野田滋)
”左沢線・最上川橋梁”番外編
師匠、長井線と左沢線って、どちらも最上川にそっていて地図を見てるとつながりそうですね。
実は、計画はあったんだが、実現しなかった。
えっ、本当につなごうとしていたんですか?
荒砥と左沢を結ぶ荒左線という計画があった。
いつ頃の話ですか?
左沢線は大正11年、長井線は大正12年に全通したんだが、大正11年の改正鉄道敷設法の別表で「左沢ヨリ荒砥ニ至ル鉄道」が定められた。
それは「当選確実」ですね。
地元でも陳情を繰り返していよいよ実現という時に、戦争が始まってしまった。
それで実現しなかったんですね。
戦後もいろいろと構想はあったんだが、結局実現しないまま今に至っておる。
今回は「古トラス、二箇所に架かる、最上川」ですかね。
「幻の、鉄路を秘めて、最上川」だな。