ドボ鉄032京急蒲田駅とその周辺

絵はがき:京浜急行電鉄・京急蒲田駅(東京都)


 東京南部と三浦半島を結ぶ京浜急行電鉄の歴史は、1899(明治32)年に六郷橋~大師間で営業を開始した大師電気鉄道(のち京浜電気鉄道に改称)にさかのぼることができる。大師電気鉄道は、関東で最初の営業用の電気鉄道であったが、その後、路線を品川、横浜方面ヘと伸ばし、1930(昭和5)年には高輪~横浜間が結ばれた。さらに横浜~日ノ出町間に線路を延ばして、日ノ出町以南を建設した湘南電気鉄道と相互直通運転を行ない、現在の路線網が形成された。
 京浜急行電鉄の京急蒲田駅は、1901(明治34)年2月1日に「蒲田」として開業したが、その後、1923(大正12)年4月に専用軌道を新設し、1925(大正14)年11月には「京浜蒲田」(のち「京急蒲田」に改称)に改めた。また、1902(明治35)年には、蒲田~穴守間の穴守線(現在の空港線)も開業し、分岐駅としても機能した。
 「一千呎(フィート)の上空より飛行機にて撮影したる写真」と題した大正末~昭和初期の絵葉書には、京浜蒲田とその周辺が撮影されている。線路の山側に広がる敷地は、1919(大正8)年9月に開設された日本自動車学校で、海側では、京浜国道の開削工事が進んでいる。
 自動車の運転免許制度は明治時代末から県ごとに決められた規則としてスタートしたが、全国レベルの道路交通に関する法令が整備されるのは大正時代になってからであった。1915(大正4)年には日本最初の自動車教習所として東京自動車学校が創設され、日本自動車学校が設立された1919(大正8)年には自動車取締令が制定されて、全国一律の運転免許制度が発足した。しかし、自動車が本格的に普及するのは、1923(大正12)年に発生した関東大震災でその機動性が注目されてからで、昭和戦前時代は鉄道の末端輸送を担う存在にとどまった。
 京急蒲田駅は、駅を重層立体構造の分岐駅とする高架化工事を2001(平成13)年に開始し、2012(平成24)年に竣功した。高架化工事の完成によって、本線と空港線のアクセスは飛躍的に向上し、京浜急行電鉄の要衝として発展を遂げている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2009年12月号掲載)

 

この物件へいく


Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

「重層立体構造の分岐駅」とは、どのような駅のことですか?

A

重層立体構造は、プラットホームを上下2層に配置した構造で、一般に分岐駅として使われます。こうした駅は、用地費を節約することができ、乗換えも便利となり、列車の競合も最小限に抑えることができるなどのメリットがありますが、列車を走らせながら工事を行う場合は、狭い場所で線路の切換えを何度も繰り返さなければならないので、施工が複雑となります。高架駅として建設される場合と、地下駅として建設される場合があり、前者(高架)の例としては京急蒲田駅のほかにも近鉄の布施駅、京成の青砥駅、名鉄の太田川駅があり、後者(地下)の例としては京王の調布駅の例があります。(小野田滋)


”京浜急行電鉄・日本自動車学校”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

今回は「赤い電車に白い帯~♪」の京浜急行ですね。

師匠

お前さんもずいぶん古いCMソングを知っているな。さては、昭和の生まれだな。

小鉄

やだなあ。「You Tube」で見たんですよ。

師匠

東京オリンピックの頃のCMソングだぞ。

小鉄

ところで、自動車学校ができたり、京浜国道の工事が始まったってことは、自動車がだいぶ走り始めたってことですか?

師匠

大正時代の初めは、まだ全国で1000台くらいだったが、1920(大正9)年には1万台を超えた。

小鉄

自動車が走れるような道路はあったんですか?

師匠

舗装道路もほとんど無くて、道幅も狭かったから肝心の道路の整備が遅れていた。1919(大正8)年に道路法が制定されて、ようやく本格化したんだ。

小鉄

京浜国道の整備も、それに合わせたんですか?

師匠

そうだ。

小鉄

信号機はあったんですか?

師匠

信号機はもっと後だ。1930(昭和5)年に東京の日比谷交差点に設置されたのが最初とされている。当時は「ゴーストップ」と呼ばれていた。

小鉄

鉄道は明治時代から信号機があったのに、道路はずいぶん遅れていたんですね。

師匠

鉄道が一歩先を越していたんで、今回はご機嫌だな。

小鉄

「そら飛ばせ~、僕ご機嫌♪」

Back To Top