ドボ鉄034文化の威力

絵はがき:東海道本線・大阪駅(大阪市)


 高架橋に付随した駅は、明治時代末に赤煉瓦のアーチ式高架により完成した有楽町駅などいくつかあったが、昭和時代になると鉄筋コンクリートラーメン構造を用い、大規模な高架駅が建設されるようになった。
 その代表格が大阪駅で、5面のプラットホームを備えた駅として、1934(昭和9)年に高架化工事が完成した。工事は、阪神急行電鉄(阪急電鉄)との切替え工事や、地下鉄御堂筋線、御堂筋の拡幅、駅前の区画整理事業などとほぼ同時期に進められ、駅だけではなく周辺の都市基盤施設の整備と併せて総合的に実施された点でも意義があった
 「文化の威力」と題した絵葉書の中央には「大大阪観光記念」のスタンプが押されているが、これは、1937(昭和12)年に大阪市電気局(のちの交通局)と同産業部が共同で制作した宣伝映画「大大阪観光」(J.O.スタヂオ制作)にちなむもので、映画の冒頭で新装なった大阪駅が紹介される。1929(昭和4)年には大阪城天守閣が再建され、1933(昭和8)年には市営地下鉄が開業し、1937(昭和12)年には御堂筋が完成するなど、「大大阪」と呼ばれる時代を迎え、高架駅に生まれ変わった大阪駅は、その繁栄のシンボルとなった。しかし、続く大阪駅本屋の建替え工事は、戦時体制に伴う鉄鋼統制で組み立てたばかりの鉄骨の一部を撤去され、未完成のままに終わった。
 大阪駅の改良工事は、戦前に完成した高架橋を基盤として、戦後も地盤沈下対策工事や0番線ホームの増設、駅ビルの建設などが継続して行われ、さらに2011(平成23)年に「OSAKA STATIONCITY」としてリニューアルされて現在の姿となった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2011年5月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

地盤沈下対策工事は、何のために行ったのですか?

A

梅田はもともと「埋め田」と呼ばれ、淀川の河口の軟弱地盤を埋めて田んぼとしていた土地でした。大阪駅の高架化工事をしている頃から、工場による地下水の汲み上げの影響によって地盤沈下が進行し、1941(昭和16)年には沈下対策委員会を設置して対策を検討しましたが、戦争の影響によって中断されました。戦後は、1947(昭和22)年に検討を再開し、地下水位と沈下量の関係や、構造物の変状などを把握しましたが、沈下量は最大約1.8mにも達しました。これらの検討事項に基づいて、1952(昭和27)年~1964(昭和39)年にかけて対策工事が実施されました。工事では、アンダーピンニング工法によって既存の構造物を支えたのち、杭を支持地盤である天満層に達するように打ち直し、高架橋や乗降場を扛上(こうじょう)するなどの沈下対策を行いました。工事は、日本国有鉄道大阪工事事務所(のち大阪工事局)が担当しました。(小野田滋)


”大阪駅”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

「大大阪」って「大」の字が被っちゃってますが、誤植ですか?

師匠

何を言っておる。大阪は1925(大正14)年に市域を郊外に拡大して、4区から13区になり「大大阪」と呼ばれた。

小鉄

でも、たった13区で「大大阪」なんて、大げさだなあ。

師匠

大阪市は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のいわゆる「戦間期」に関一市長の下で繁栄を遂げて、東京の人口を抜いて日本一の大都市になった。

小鉄

ええっ!東京より人口が多かったんですか?

師匠

市域拡大で人口が211万人となって、東京市の200万人をわずかに抜いた。

小鉄

すごいですね。関市長のおかげですか?

師匠

それだけではないが、市長になる前は社会政策や都市計画を専門とする学者で、海外の最新事情にも詳しかった。御堂筋を整備して地下鉄を開業させて、今では「大阪の父」と呼ばれている。

小鉄

東京は首都なのに、さぞかし悔しかったでしょうね。

師匠

当時の東京は関東大震災の直後で、それどころではなかったんだ。むしろ都心の人口が減少して、人々は郊外に移住した時代だったからな。

小鉄

なるほど。

師匠

しかし、東京も1932(昭和7)年に周辺の郡部を東京市に編入して市域拡大を行って、それまでの15区と合わせて35区となって人口も一気に3倍近くになり、「大東京」と呼ばれた。

小鉄

昔は35区もあったんですか?

師匠

戦後の1947(昭和22)年に35区を再編して、今の23区になった。

小鉄

うちのオンボロアパートも、拡張して「大アパート」に生まれ変わりませんかね?

師匠

オンボロアパートは、拡張しても「大オンボロアパート」になるだけだ。

建設概要駅沈下対策
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