中央本線の四ツ谷~信濃町間で、緩行下り線(各駅停車の下り線)がくぐっている煉瓦造のトンネルは、かつてこの線を建設した甲武鉄道が1894(明治27)年に完成させた。このトンネルは、旧御所トンネルという名が示すように、東宮御所の敷地の一部を通過しており、「四ツ谷見附ヨリ東宮新御所遠望」と題した絵葉書でも、東宮御所を背にして、その脇に土被り(地表面からトンネル天端までの深さ)の浅いトンネルの坑門が写っている。東宮御所は、1909(明治42)年に建築家の片山東熊(かたやま・とうくま)の設計によるネオ・バロック様式の壮麗な洋風建築が完成し、現在は迎賓館となっている。右手(北側)には学習院初等科があり、トンネルはその間をくぐり抜けていた。御料地内を鉄道が通過するにあたっては、不敬であるなどの反対もあったと言われるが、国民生活が向上するためならばさしつかえないという宮内省側の判断もあって、認められたと伝えられる。
御所の前の通りには、弁慶橋方面へと至る東京市電が走っており、右手に四ツ谷駅の構内の一部が見えている。江戸城の外濠はまだ水を湛えているが、このあたりはのちに埋め立てられて、現在では上智大学のグラウンドとして、また東京メトロ丸ノ内線の四ツ谷駅の敷地として利用されている。昭和初期に行われた中央本線の複々線化工事では、西側に新御所トンネルが完成したため、旧御所トンネルは単線トンネルとして使用され、現在に至っている。甲武鉄道にはこのほかにも都心に3箇所のトンネルがあったが、いずれも複々線化工事の際に撤去されて現存せず、旧御所トンネルのみが甲武鉄道の面影を今日に伝えている。
(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2010年9月号掲載)
Q&A
何でわざわざ御所の近くにトンネルを造ることになったんですか?
甲武鉄道は新宿から飯田町へ線路を延ばす時に、二つのルートを考えていました。一つは、新宿から花園神社の北側を迂回して紅葉川沿いに市ケ谷あたりに出る北回り案と、現在の千駄ケ谷、信濃町を経由する南回り案です。はじめは甲州街道に沿っていて人家も集まっていた北回り案が有力でしたが、甲武鉄道の経営者の一人だった雨宮敬次郎が陸軍の川上操六に両案を説明したところ、ぜひ南回りで建設してほしいとの逆提案がありました。南回りの路線は、御料地や青山練兵場の近くを通過するため、蒸気機関車の煤煙が演習の邪魔になるなどとして、陸軍からも反対されており、甲武鉄道としても人家の少ない地域なので輸送需要が期待できないとして実現に消極的でした。しかし、海外の軍隊に精通していた川上は、国家有事の際に鉄道による軍事輸送が不可欠であることを認識していたため、練兵場に隣接して軍用の停車場(青山停車場)を設けることを要求し、自ら宮内省と陸軍の説得にあたりました。1894(明治27)年に勃発した日清戦争では、この青山停車場を利用した軍事輸送が実施され、戦捷に貢献しました。(小野田滋)
”旧御所トンネル”番外編
この写真、トンネルの横に階段が写っていますが、何のための階段ですか?
ああ、これが例の「四谷怪談」ってやつだ。
からかわないで下さいよ。僕は心霊現象に弱いんですから。
お前さんも臆病者だな。それは、四ツ谷駅に降りるための階段だ。
最初からあったんですか?
いや、後から赤坂方面からも出入りができるように設けたようだ。
幅が今よりも広いですね。
詳しいことは調べてみないとわからんが、複々線化工事の時にいったん撤去して、丸ノ内線の工事の後に現在の狭い幅の階段を設けたようだ。
丸ノ内線は地下鉄なのに、中央線の上を跨いでるんですね。
地下鉄の四ツ谷駅は、戦時中から計画していたので防空上の見地から地下の深い場所をくぐる予定だった。戦後はその必要が無くなったので、工事費が安くて済む上を跨ぐ計画に改めたそうだ。
階段を登ると地下鉄の駅があるというのも、よく考えると不思議ですね。
そんなに珍しくもないぞ。丸ノ内線の後楽園駅とか銀座線の渋谷駅も階段で上へ登らなければならない。
地下鉄に乗ろうと思って、地下道の入口を探したりしないですかね。
そんな粗忽者は、お前さんだけだ。