東海道本線熱海~函南間の丹那トンネル(延長7,804m)は、1918(大正7)年に工事を開始し、1934(昭和9)年に完成した。その間、2度の大きな地震に遭遇したが、1923(大正12)年の関東大震災では、坑内に地鳴りが響いたものの被害はほとんど無く、むしろ坑外の鉄道官舎や電力設備などが被災した。
しかし、1930(昭和5)年11月26日の早朝(4時2分)に発生した北伊豆地震(M7.3)では、西坑口から3,260m~3,320m付近のアーチの天端部分から崩落し、坑内のずり運搬用の蓄電池機関車と土運車を直撃した。この区間は、すでに本坑の掘削も終了し、覆工コンクリートを巻くだけであったが、運転手は救助されたものの作業員3名が犠牲となった。
また、西坑口から3,653m付近の地点で掘削中の水抜坑では、いわゆる断層鏡面が現れ、約2.1mほど変位したことが観察された。当時の記録では、「坑一杯に断層鏡面が現れたのであって一大壮観であった。」とその驚きが記された。
丹那断層は、地表の丹那盆地にも痕跡を残し、「昭和五年伊豆地震の際丹那断層に生ぜる道路の喰違」と題した絵葉書には、地表面の道路が水平にずれている様子がおさめられた。丹那断層は、国の特別天然記念物にも指定され、現在では函南町畑(丹那トンネルのほぼ直上の南側)に、丹那断層を直接観察することができる丹那断層公園がある。
また、丹那盆地の函南町下丹那には碑面に「渇水救済記念碑」とある石碑が建つが、これは丹那トンネル工事の影響で発生した渇水被害と、その救済にあたった西伊豆出身で静岡県耕地課農林主事(のち仁科村村長)・柏木八郎左衛門の功績を讃えた碑である。丹那トンネルの工事は大量の湧水で難工事となったが、これによって丹那盆地の水源が涸れてしまったため、農民が建設事務所に押掛ける騒ぎとなった。柏木は県の職員として鉄道大臣に面会を求めるなどして粘り強い交渉を続け、水利組合の設置や補償金の交付などの救済策を引出し、1933(昭和8)年に全面解決した。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2012年12月号掲載)
Q&A
断層鏡面って何のことですか?
断層鏡面は、断層が動くことで断層面に大きな力が加わって鏡のように磨かれ、光沢を発する状態になることです。断層鏡肌とも呼ばれていて、ずれた方向に条線(岩石がこすれた際の傷)を伴います。丹那トンネルの断層鏡面は、左横ずれ断層運動に伴うリーデルせん断(Riedel shear/雁行状のせん断)によって生じたと考えられています。(小野田滋)
”丹那トンネルと丹那断層”番外編
水抜坑ってありますけど、トンネルとは違うんですか?
トンネルを掘ると出てくる水を「湧水(ゆうすい)」と呼んでいるが、大量の湧水があるとトンネルが掘れなくなるから、本坑とは別に水を抜くための小断面のトンネルを掘ることがある。これを水抜坑と称している。
トンネルを掘ると、何で水が出てくるんですか?
地面の下には地下水があるから、トンネルを掘ると井戸と同じで水が出てくる。
井戸って言われても、よくわかりませんが。
そうか。最近は井戸を見かけなくなってしまったから、少し説明が必要だな。
ぜひお願いします。
普通の井戸は、竪穴式で地面を掘って、溜った地下水を汲み上げて使う。
その方が水が溜まりやすいですよね。
トンネルは井戸を横向きに掘るようなものだ。
だからトンネルを掘ると、水が溜まらずに流れ出てくるんですね。
地層には、水を通しやすい透水層と、水を通しにくい不透水層があって、水は透水層から湧き出てくる。
透水層の位置がわかれば、うまく工事ができるってことですね。
ところが、丹那トンネルの工事が行われた頃は、地質調査の技術が未熟だったので、予想できなかった。
行きあたりばったりってことですか?
丹那トンネルも工事の前に簡単な地質調査はしていたんだが、地下水までは調査していなかった。
それで難工事になってしまったんですね。
それだけではなくて、地質そのものも良くない場所だった。いずれにしても地質調査がほとんどできていなかったということだ。
地質調査がうまくできれば、トンネルも上手に掘れるってことですか。
丹那トンネルの工事で初めてそのことに気がついたんで、1930(昭和5)年に鉄道省土質調査委員会という組織が発足して、地質調査技術の研究と導入が本格的に始まった。
難工事の苦い経験が、新しい技術をもたらしたってことですね。
お前さんも、苦い経験を重ねれば、早く一人前になれるかもしれんぞ。
苦い経験は勘弁してほしいので、ゆっくり一人前になる「遅咲きコース」でお願いします。