わが国における鉄道事業者による住宅開発のはじまりは、1909(明治42)年、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚線ほか)による池田室町の分譲と言われ、鉄道の多角経営のパイオニアとも言うべき小林一三のアイデアによるものであった。東京近郊でも、都市部の人口増加や、関東大震災による都心から郊外への移住を背景として、大正時代末から昭和初期にかけて、鉄道沿線に郊外住宅地が形成されるようになった。
堤康次郎の率いる箱根土地(国土計画を経て現在のプリンスホテルに吸収)は、中央本線の国分寺駅と立川駅の間の雑木林を買い取り、ここに学園都市をコンセプトとした新しい街づくりを開始した。そして、東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)を誘致し、さらに都心から東京商科大学(現在の一橋大学)が移転して文教地区としてのイメージアップが図られた。国立駅は、この箱根土地が鉄道省に請願・寄付して新設された駅で、駅前のロータリーを中心として放射状に延びる街路が、日本離れした景観を演出した。
「こゝは日本の国立です(大正十五年三月飛行機より撮影)」と題した絵葉書は、箱根土地が宣伝のために制作したもので、「国立に居住し、丸の内に通勤することは、まさに都会人の憧憬です。」と人々の心をくすぐった。国立駅の開業は、1926(大正15)年4月1日なので、この写真はその直前の光景を撮影したものである。当時はまだ都心からの便も悪く、都市として発展するには、なお相当の年数を要したが、学園都市の理想は脈々として受け継がれ、今や都内で有数の住宅地として発展している。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2008年8月号掲載)
Q&A
国立という駅名は、国分寺駅と立川駅の中間に設けられた駅なので、「国立」と名付けられたというのは本当ですか?
その通りです。このあたりはもともと「谷保(やぼ)」という地名で、甲州街道にそった谷保がその中心地だったので「谷保村」と呼ばれていました。街道沿いに谷保天満宮(やぼてんまんぐう)があり、南武線には谷保(やほ)駅があります。国立は「国が立つ」という縁起が良い名前だったこともあって、シンプルで親しみやすい駅名として受け入れられたと言われています。谷保村に町制が施行された1951(昭和26)年に「国立町」となり、さらに1967(昭和42)年の市政施行で現在の国立市になりました。駅名は地元の自治体名や地名に由来する例がほとんどですが、駅名にちなんだ自治体名を採用した珍しい例です。(小野田滋)
”国立駅”番外編
駅前広場に写っている丸い所は何ですか?
ああ、それはロータリーだよ。
今もありますか?
円形公園と称して植込みと八角形の池がある。あと、紀元2600年を記念して建立された「国威宣揚」と書かれた国旗掲揚塔と、新しい時計塔がその中に建っている。
何で池があるんですか?
昔の絵葉書に鳥籠のようなものが写っているが、水禽舎があった。
「スイキンシャ」って何ですか?
ペリカン、鴨、白鷺などの水鳥を飼うための鳥小屋のことだ。
動物園みたいですね。
まだ自動車はほとんど走っていなかったから、ベンチなんかも置かれて駅前広場が公園のような役割を果たしていたようだ。
ロータリーがあるだけで、なんだかヨーロッパみたいな雰囲気ですね。
そこで絵葉書の宣伝文句も「ここは日本の国立です」と、わざわざ外国でないことを強調している。
駅も住宅も三角屋根ですね。
当時は、屋根勾配のゆるい寄棟屋根の日本家屋が多かったから、屋根勾配が急な三角屋根の建物は目立つし、新鮮でお洒落なイメージがあったんだろう。
うちのアパートもお洒落な三角屋根に改装しましょうよ。
住人がお洒落になれば、考えてもいいぞ。
お洒落は無理だけど、駄洒落なら任せてくだしゃれ。
………。