ドボ鉄057東京地下鉄道の浅草駅

絵はがき:東京メトロ・浅草駅(東京都)


 1927(昭和2)年、日本で最初の地下鉄道として開業した東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線浅草~新橋間)は、収益の拡大を図るために、さまざまな事業展開を行なった。その象徴が1929(昭和4)年に地下鉄出入り口を兼ねて完成した浅草雷門ビルで、東京地下鉄道では完成と同時に事業課を設置して直営食堂を開設し、関連事業の拡大を本格化させた。
 尖塔を備えた雷門ビルは、1931(昭和6)年に完成した東武鉄道浅草雷門駅(現在の浅草駅)とともに、たちまち浅草のランドマークとなって人気を集めた。当時、浅草のレビューに入り浸っていた小説家の川端康成は、『浅草紅団』という小説の中で、「尖塔―教会の屋根の鐘楼のような、円いコンクリイトの塔だが、東西南北に四つの見晴らし窓……(中略)……東の窓は一目の前に神谷酒場。その左下の東武鉄道浅草駅建設所は、板囲いの空地。大川。吾妻橋―仮橋と銭高組の架橋工事。東武鉄道鉄橋工事。」と描写し、地下鉄雷門ビルとほぼ同時期に着工した東武鉄道伊勢崎線の浅草雷門駅延長工事の建設現場についても言及した。
 「浅草駅乗車口」と書かれた絵葉書には、地下鉄雷門ビルとともに吾妻橋の橋詰に設けられた社寺建築風の乗車口が紹介されるが、この出入口は震災復興事業として行われた吾妻橋の架橋と雷門通りの街路整備に合わせて1930(昭和5)年に完成した。地下鉄雷門ビルは2006(平成18)年に解体されてしまったが、駒形橋の橋詰付近に設けられた朱塗りの出入口は健在で、今も浅草の発展を見守り続けている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2018年2月号掲載)

 

この物件へいく


Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

東京地下鉄道の駅は誰が設計したんですか?

A

 東京地下鉄道では、建設にあたって早稲田大学建築学科助教授の今井兼次(1895~1987)を嘱託に任命し、ヨーロッパの地下鉄駅-特にベルリンUバーン-の調査にあたらせました。東京地下鉄道では、今井の意見を参考として地下鉄出入口の設計コンペを行い、その当選案から採用しました。設計にあたっては、「都市の美観上の問題と周囲店舗の見透し」(『東京地下鉄道史(坤)』東京地下鉄道・1934)が重視され、その結果、最小の寸法で上屋を設けた出入口となりました。日本の気候に考慮して、雨除けの上屋と横降りの雨を防ぐ高欄を設け、耐火性を考慮して鉄筋コンクリート構造としたほか、浅草駅の吾妻橋出入口は浅草の土地柄に配慮して和風の上屋として設計されました。設計コンペの記録が残っていないため、今のところ設計者の名前までは特定できていません。
 ちなみに、今井兼次の教え子の一人である大野泰弘は、早稲田大学建築学科から鉄道省に入省し、フランスのル・コルビュジエの下で修行した土橋長俊と共同で土橋・大野建築事務所を設立し、1954(昭和29)年に完成した東京メトロ丸ノ内線の御茶ノ水駅を設計しました。(小野田滋)


”浅草駅(東京都)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

川端康成の「浅草紅団」は「ドボ鉄」第30回でも紹介されていましたね。

師匠

よく覚えていたな。

小鉄

「教会の屋根の鐘楼のような」の意味がようやくわかりました。

師匠

浅草のシンボルだった凌雲閤が関東大震災で倒壊したんで、地下鉄雷門ビルは震災復興を象徴する浅草のシンボルだった。

小鉄

今はどうなっていますか?

師匠

2006(平成18)年に解体されて新しいビルに建て替えられた。

小鉄

残念ですね。何も残っていないんですか?

師匠

地下道への出入口にあった、竜のレリーフが地下のエレベーター付近に保存されているぞ。2匹の竜に、東京地下鉄道のイニシャル「TC」をデザインした社紋が挟まれている。

小鉄

吾妻橋の地下鉄出入口の方は、今も絵葉書のままですね。

師匠

絵葉書と現在を見比べると、屋根の四隅にあった風鐸(ふうたく)が無くなったようだが、「地下鉄出入口」のデザイン文字は健在だ。

小鉄

「ふうたく」って何ですか?

師匠

お寺の屋根の四隅にぶら下がっている風鈴のような飾りのことだ。

小鉄

地下鉄ってほとんど地面の下だから、あまり見どころが無いと思ってましたけど……。

師匠

地下鉄が開業した頃の痕跡は、今でも銀座線のあちこちに残っているから、現地に行くといろいろな発見があるぞ。

小鉄

頑張って見つけてみます。

絵はがき絵はがき
Back To Top