甲府盆地で釜無川と笛吹川が合流し、富士山の裾野を経由して太平洋へとそそぐ富士川は、暴れ川としてたびたび流域に水害をもたらした。その河口部に架かる東海道本線の富士川橋梁は、富士山を背景としていることもあって、1889(明治22)年に東海道本線が全通した頃から絵葉書の題材として用いられた。
最初に架設された橋梁は、平行弦によるイギリス製のダブルワーレントラスであったが、1910(明治43)年の複線化の際には下り線側に曲弦によるシュウェドラートラスを架設した。また、上り線も1914(大正3)年の水害をきっかけとして曲弦プラットトラスに架け替えられたが、今回紹介する富士川橋梁の絵葉書は、この時期以降の写真であると判断される。その後、シュウェドラートラスにおけるアイバーの弛緩が問題となり、1956 (昭和31)年に上流側に新たに3径間連続中路プレートガーダを架設し、上り線のトラスを下り線に転用して現在に至っている。
それまでの富士川橋梁は、いずれもトラスの斜材が錯綜するため、富士山の姿を車窓から楽しむことができなかったが、上流側に新設された上り線は、中路プレートガーダを用いることで上フランジを車窓の下端よりも低い位置に抑え、富士山の眺望を確保した。また、強風で架線が揺れるため、特別な設計の耐風架線を開発して架線の揺動を抑えた。
旧下り線のトラスは廃線となった後も存置されたが、1982(昭和57)年8月2日に発生した台風10号による増水で第4橋脚が流失したことを契機に下部構造を含めてすべて撤去した。この災害では下り線と旧下り線のトラス各2連が落橋し、下り線はただちに平行弦ワーレントラスによる復旧工事を行なって、75日後に運転を再開した。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2018年4月号掲載)
Q&A
耐風架線って何ですか?
富士川橋梁の上り線に架設された3径間連続中路プレートガーダは、架線柱を固定するための橋脚の間隔が長さ63.5mとなり、当時の一般的な架線柱の最大間隔(約50mが目安とされる)を超えることとなりました。このため強風による架線の揺動の拡大が懸念され、耐風架線として国鉄鉄道技術研究所でダブルメッセンジャーコンパウンドカテナリー架線が開発され、富士川橋梁上り線で用いられました。(小野田滋)
”富士川橋梁(静岡県)”番外編
新幹線の車窓から富士山がきれいに見えると、その日は1日ハッピーな気分になれますね。
ところが、東海道新幹線を建設する際に、富士山の眺望を妨げない橋梁形式にすべきだという強い意見があった。
どういうことですか?
東海道新幹線で用いられた標準設計のトラス橋は下路連続ワーレントラスだったから、そのまま架けると斜材が邪魔になって、富士山が見えにくくなってしまう。
だったら、上路橋にすればいいじゃないですか?
だが、上路橋は線路の位置が高くなるから、川の両岸に背の高い盛土や高架橋を建設しなければならない。
洪水があったら、大変なことになりますね。
結論は、ほかの場所からも富士山は見えるし、新幹線は高速であっという間に走り抜けるから、標準設計のワーレントラスのままで良いということになった。
たしかに、富士川橋梁を通過していても、少し邪魔だけど、ほとんど気になりませんね。
在来線の富士川橋梁の下り線側も下路トラスだから、富士山が見えにくいが、上り線側は中路プレートガーダを使ったから、富士山がよく見える。
なぜですか?
在来線の富士川橋梁の主桁の高さは、電車の窓よりも低い位置に設計してある。
あっ、ほんとだ。写真をよく見ると確かにそうなってますね。
車窓から富士山がよく見えるように、高さを考えて設計したんだ。
富士山をきれいに眺めてもらうことを意識して橋を設計するなんて、粋な配慮ですね。
富士川橋梁を上り列車で渡る時は、先人の工夫に感謝するように。