阪神タイガースの本拠地で、高校野球全国大会で知られる阪神甲子園球場は、阪神電気鉄道(以下「阪神電鉄」)によって1924(大正13)年に完成した。創業期の同社については、ドボ鉄第068回「めざせインターアーバン」で紹介したが、その実現に貢献した三崎省三(1867~1929)は、1922(大正11)年に代表取締役となり、支線網の整備、電力供給事業、不動産開発、半鋼製電車の導入などを展開した。
阪神電鉄では、武庫川の河川改修事業にともなって廃川となった武庫川の派川(はせん)である枝川と申川(さるかわ)の廃川敷を、1922(大正11)年に兵庫県から購入し、その帯状の敷地を利用して住宅開発と遊園施設の整備を計画した。この計画はのちに造園家で都市計画家の大屋霊城(1890~1934)による「花苑都市計画」として具体化され、1930(昭和5)年には上流の武庫川との分流点付近に遠藤新(1889~1951)の設計による甲子園ホテル(現在の武庫川女子大学甲子園会館)が完成した。
一方、阪神電鉄では1916(大正5)年、鳴尾(兵庫県西宮市)の競馬場に隣接して運動場を設け、1917(大正6)年からは豊中球場(大阪府豊中市)で開催されていた全国中等学校優勝野球大会(現在の「夏の甲子園」)を誘致した。その後、野球人気の高まりとともに、主催者側の大阪朝日新聞社から大規模球場を建設することが提案され、三崎自身がアメリカ留学の頃から野球に関心が高かったことなどによって計画が進んだ。
新球場の建設場所は、廃川となった枝川と申川の分流点付近に求められたが、この場所は阪神電鉄本線からも至近であった。阪神電鉄では新球場の建設計画を推進するための責任者として、京都帝国大学工学部土木工学科を卒業して入社したばかりの野田誠三を起用し、甲子園球場の設計は、大林組の小田島兵吉が設計主任としてこれを担当した。また、1921(大正10)年には阪神電鉄車両課長の丸山繁がアメリカへ派遣され、ニューヨークジャインアンツの本拠地であったポログラウンズの設計資料などを入手したとされる。
新球場は「枝川運動場」の名称で建設が進められたが、完成年の干支にちなんで「甲子園」と名付けられ、同年から鳴尾球場で行われていた全国中等学校優勝野球大会が開催された。さらに翌年からは、名古屋市の山本(八事)球場で行われていた全国選抜中等学校野球大会(現在の「春の甲子園」)も開催された。ちなみに、職業野球の大阪タイガース(現在の阪神タイガース)が発足するのは、三崎の没後の1935(昭和10)年のことであった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2020年10月号掲載)
Q&A
三崎省三さんってどんな方ですか?
三崎省三さんは、1867(慶応3)年7月23日に、兵庫県氷上郡黒井村(現在の丹波市の一部)で生まれ、地元の小学校を卒業したのち、両親の反対を押し切って東京に出奔し、さらに1886(明治19)年にアメリカヘ渡りました。スタンフォード大学、パデュー大学へ進学して機械工学士の学位を取得し、1894(明治27)年に帰朝しました。
帰国後は、電気工学者の藤岡市助さん(1857~1918)の仲介により三吉電機工場に就職し、さらに1899(明治32)年に摂津電気鉄道に入社して、技術長に就任しました。摂津電気鉄道は、1899(明治32)年に阪神電気鉄道と社名を改め、インターアーバン(アメリカで発達していた都市間高速電気鉄道)をモデルとして1905(明治38)年に神戸(三宮)~大阪(出入橋)間が開業しました(ドボ鉄第068回参照)。
1914(大正3)年に取締役となったのち、代表取締役に就任して実質的な阪神電鉄の経営者となりました。そして、伝法線、甲子園線、国道線などの支線網の整備、電力供給事業や不動産開発の推進、半鋼製電車の導入など、かつてアメリカで習得した「経営学」に基づいて堅実な経営を展開し、さらに甲子園球場を完成させました。創業以来の生え抜きの技術者兼経営者として中興の祖となり、経営基盤の確立に貢献しましたが、1927(昭和2)年に阪神電鉄を去り、1929(昭和4)年2月23日に逝去しました。(小野田滋)
野田誠三さんってどんな方ですか?
野田誠三さんは、1895年(明治28年)2月11日 に現在の兵庫県加西市で生まれ、1922(大正11)年に京都帝国大学工学部土木工学科を卒業して阪神電鉄に入社しました。1924(大正12)年に枝川運動場の建設主任となりましたが、「甲子園の土」として神戸市内の熊内(くもち)の黒土と淡路の赤土をブレンドし、慶應義塾大学で投手として活躍した阪神電鉄社員の石川真良さん(1890~1969)にスパイクをはかせて何度もすべりこみを繰返えして完成させたというエピソードが残っています。また、多くの文献では野田誠三さんを甲子園球場の設計者としていますが、野田さんは阪神電鉄の社員として、また土木工学の専門家として全体計画の推進に携わり、建築物としての甲子園球場の設計は、大林組の小田島平吉さんによって行われました。
1927(昭和2)年に土地課長となって引き続き甲子園地区の開発を推進したほか、六甲山の観光開発にも携わりました。土地部長を経て1941(昭和16)年には取締役となり、1951(昭和26)年に社長に就任し、さらに1968(昭和43)年からは会長として阪神電鉄の発展を支えました。また、1952(昭和27)年から23年間にわたって阪神タイガースのオーナーを努め、1974(昭和49)年には球界への貢献を讃えられて野球殿堂入りを果たしましたが、1978(昭和53)年3月28日に他界しました。(小野田滋)
小田島兵吉さんってどんな方ですか?
小田島兵吉さんは、1899(明治32)年2月1日に現在の秋田市で生まれ、1922(大正11)年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業して、ただちに大林組に入社し、本店設計部に配属されました。阪神電鉄から受注した枝川運動場の設計主任となり、鉄筋コンクリート造による29,000座席の内野スタンドと、築堤式木造による21,000座席の外野スタンドから構成される大運動場を完成させました。また、炎天下での観戦に備えて大鉄傘を設置し、スタンドの傾斜に放物線を用いて収容人数と観客の視界を確保するなど新しい試みを導入して、現在の野球場の基本的なスタイルを確立しました。
1926(大正15)年から翌年にかけて、京阪電気鉄道が寝屋川に計画した新球場(選抜中等学校野球大会の誘致をめざした)の調査のためにアメリカへ派遣されたほか、大阪電気軌道上本町ビル(ドボ鉄第052回参照)、大林組本店ビル、 大阪歌舞伎座などの設計に携わりました。1936(昭和11)年に設計部次長となり、さらに戦後は設計部長、取締役を歴任しました。また、1948(昭和23)年に新設された研究部長を兼務し、工事の機械化や新素材の導入などに積極的に取組み、1954(昭和29)年には欧米に派遣されて海外の最新技術について調査しました。
1960(昭和35)年には、秋田大学鉱業博物館を設計しましたが、同年には顧問に退き、1976(昭和51)年6月5日に逝去しました。(小野田滋)
”阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)”番外編
師匠、今回は「六甲颪(おろし)に、颯爽と~♪」ですね。
お前さんは、タイガースファンだったのか?
有名な応援歌だから、タイガースファンでなくても知ってますよ。
甲子園の名の由来を知っとるか?
「甲」の字を使っているから、六甲山と関係があるのかと勘違いしてました。
文中にもあるが、干支の「甲子(きのえね)」にちなんだ名前だ。
「キノエネ」って、何のことですか?
十干十二支(じゅっかんじゅうにし)と言って、いわゆる「干支(えと)」のことだ。「甲子」はその第1番目だから、縁起も良い言葉だ。
「子」は、子牛寅……だからネズミですよね。でも「甲」はカブト虫か何かですか?
何を言っておる。甲乙丙……の「甲」のことだ。順番を表す時に「1.2.3.……」「ア.イ.ウ.……」「a.b.c.……」などと付けるが、昔は「甲.乙.丙.……」「イ.ロ.ハ.……」が良く使われた。
「イロハ」はたまに使われてますけど、「甲乙丙」はほとんど見ないですね。
今でも契約書では「甲乙」を使ってるぞ。
つまり「1番・ショート・真弓」ではなく「甲番・ショート・真弓」ってことですか?
「史上最強の1番打者」を知ってるってことは、お前さんやはり昭和の生まれで、しかもタイガースファンだな。