ドボ鉄088伊勢電気鉄道からの年賀状

絵はがき:伊勢電気鉄道(三重県)


 今回の絵葉書は、伊勢電気鉄道という会社が1931(昭和6)年の元旦に発行した年賀状で、沿線を象徴する伊勢神宮と伊勢湾を中央として、当時の路線網が描かれている。
 伊勢電気鉄道は、1911(明治44)年に地元の資産家によって設立された伊勢鉄道を起源とし、軌間1,067mmの蒸気鉄道として発足した。伊勢鉄道は、1915(大正4)年に開業した一身田町(のち高田本山)~白子間を皮切りとして三重県下に版図を拡げ、四日市~津間を結んだ。
 1926(大正15)年に伊勢鉄道の社長に就任した実業家の熊澤一衛は、前近代的であった設備を一新して、高速電気鉄道によって中京圏と伊勢方面を結ぶことを計画し、同時に社名を伊勢電気鉄道と改め、翌年には直流1500Vによる電化を実施した。伊勢電気鉄道では、1929(昭和4)年に四日市~桑名間、1930(昭和5)年津新地(津)~新松阪(松阪)間、新松阪~大神宮前間を複線で開業させて伊勢神宮(外宮)への接続を果たし、1935(昭和10)年には桑名~大神宮前間に特急“はつひ”(初日)、“かみち”(神路)を走らせるに至った。
 しかし、伊勢神宮への延長線や電化などの過剰投資が裏目となり、さらに大阪資本(大阪電気軌道)による競合路線(参宮急行電鉄)の進出や、社長の熊澤が五私鉄疑獄事件に連座するなどして、経営はしだいに悪化した。伊勢電気鉄道は、桑名からさらに名古屋への進出を目論んだが果たせず、1936(昭和11)年に参宮急行電鉄へ合併され、同社の伊勢線として存続した。
 伊勢電気鉄道が保有していた名古屋延伸線の免許は、1936(昭和11)年に設立された関西急行電鉄に譲渡され、同社によって1938(昭和13)年に桑名~名古屋間が全通した。しかし、関西急行電鉄の軌間は1,067mmであったため、大阪方面との直通運転はできず、江戸橋駅で乗り換えを余儀なくされた。
 いっぽう、参宮急行電鉄伊勢線は、1938(昭和13)年に江戸橋~桑名間を名古屋線の一部に編入し、1941(昭和16)年には関西急行鉄道(大阪電気軌道、参宮急行電鉄、関西急行電鉄が合併した新会社)伊勢線となったのち、1942(昭和17)年8月11日、宮川橋梁を含む新松阪~大神宮前間は廃止された。関西急行鉄道はさらに南海鉄道と合併し、近畿日本鉄道が成立したのは、1944(昭和19)年のことであった。(小野田滋)(書き下ろし)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

伊勢電気鉄道は、今の近鉄と同じルートだったんですか?

A

経由地はほぼ同じでしたが、ルートは別でした。たとえば、ドボ鉄041回でも紹介した宮川では、国鉄参宮線の宮川橋梁をはさんで、上流側に伊勢電気鉄道の宮川橋梁が架かり、下流側に参宮急行電鉄の宮川橋梁が架けられました。伊勢電気鉄道の廃線跡は今も残っていて、宮川の右岸には宮川橋梁の橋台と、秋葉山トンネル(道路トンネルに改築)が現存しています。(小野田滋)


”伊勢電気鉄道(三重県)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠、伊勢電気鉄道って、今の近鉄とは違うんですか?

師匠

全く別の会社だ。しかし、全く関係が無いわけでは無い。

小鉄

たとえば?

師匠

ドボ鉄083回で紹介した養老鉄道は、いったん伊勢電気鉄道に合併した後、近鉄養老線になった。

小鉄

あっ、伊勢電気鉄道の路線図でもそうなっていますね。

師匠

あと、伊勢電気鉄道に架かっていた宮川橋梁のトラスは、近鉄などに転用された。

小鉄

絵葉書で、「近代的力学応用の伊勢電・宮川鉄橋」と紹介されているこのトラス橋ですか?

師匠

伊勢線が廃止されて、近鉄の揖斐川橋梁と木曽川橋梁、立田川橋梁、それと豊橋駅構内の城海津跨線橋に転用されて、今でも使われている。

小鉄

新しい就職先が見つかって良かったですね。

師匠

現地の廃線跡には、橋台が残っているぞ。

小鉄

ほんとだ。

師匠

後ろに写っている秋葉山トンネルも、伊勢電のトンネルを改築して再利用した。

小鉄

廃止されてからも、いろいろと利用されてるんですね。

師匠

新しい構造物を設計するだけではなく、使われなくなった土木構造物を再生することも、土木技術には必要だ。

小鉄

構造物のリサイクルですね。

師匠

昔は鉄材料が貴重だったから、古くなった橋梁はよくリサイクルされた。

小鉄

師匠も歳だから、そろそろ新しい就職先を見つけて、リサイクルしたらどうですか?

師匠

お前さんはまだ半人前だから、しばらくの間はワシが現役だ。

木曽川橋梁データ城海津跨線道路橋データ立田川橋梁データ揖斐川橋梁データ
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