最上川、球磨川とともに日本三大急流に数えられる富士川は、たびたび流域に水害をもたらし、その河口部では治水施設として江戸時代初期に雁堤(かりがねづつみ)が築かれ、幕末に帰郷堤(ききょうつづみ)が建設された。明治時代になって東海道本線の建設が開始され、現在の富士~富士川間に富士川橋梁が架設されることとなった。初代の富士川橋梁は、延長1874フィート(571.2m)で、当時の標準設計であった支間208フィート(63.40m)のイギリス製単線下路ダブルワーレントラス×9連で構成され、1889(明治22)年2月1日に開通した。
『明治二十年度鉄道局年報』(鉄道局)の記述によれば、「富士川ハ其流量土木局ノ測定ニ拠ルニ本線路中最大ノ河流ニシテ、洪水暴張ノ時ニ当リテハ水流ノ速力一秒時間廿七呎ニ達スルヲ以テ、其架橋ハ実ニ特殊ノ設計ヲ要スルモノトス」とあり、さらに「富士川ハ先ニ記載セシ如ク、本線路中最モ急激ナル河流ニシテ其流量モ亦最モ大ナルヲ以テ、二百呎鉄桁九個ノ架設ヲ要シ、橋台ハ亦最モ堅牢巨大ナルを要ス」とあって、急流河川にふさわしい堅牢な下部工を意識して設計を行ったことが理解される。
同時期の東海道本線に建設された大井川橋梁、天竜川橋梁、長良川橋梁では、楕円形のウェル(井筒またはオープンケーソンとも)を用いたが、富士川橋梁は長径35フィート6インチ(10.82m)×短径18フィート(5.49m)と最大で、他の橋梁の1.2~1.5倍の規模があった。上部工のトラス橋は、その後の改良工事や災害によってすべて架替えられてしまったが、下部構造はのちの水害で撤去された。(起点側から数えて)第4橋脚と第8橋脚を除いて現在も継承され、富士川橋梁をたくましく支え続けている。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
雁堤(かりがねづつみ)と帰郷堤(ききょうづつみ)は、変わった名前ですが、何か由来があるのですか?
雁堤は旧国道1号(現在は県道)の道路橋として架かっている富士川橋のやや上流側の左岸にある三角形の平面を持つ堤防で、江戸時代初期に古郡(ふるごおり)家三代にわたって築かれました。その平面形状が雁行を思わせることから雁堤と呼ばれ、富士市の史跡に指定されています。また、帰郷堤は雁堤の南端にある水神社の南側から東海道本線の富士川橋梁付近にかけてかつて存在した堤防で、幕末に建設されましたが、富士川橋梁の建設によって大部分が撤去、改築されました。堤防の完成によって水害で土地を奪われた人々が故郷に戻ることができたこと、普請にあたった土岐(とき)氏の家紋が桔梗紋(ききょうもん)であったことなどから帰郷堤と呼ばれるようになったと伝えられます。(小野田滋)
”富士川橋梁(静岡県富士市)”番外編
橋を調べていると、よく橋脚、橋台って言葉が出てきますが、何が違うんですか?
どちらも橋を支える基礎の部分だ。
ってことは、同じってことですか?
橋を支えるという意味では、同じ「基礎」構造物に分類される。「下部構造」とか「下部工」と呼ぶ場合もある。
縁の下の力持ちってやつですね。
しかし、構造は橋台と橋脚で大きく異なる。
どういうことですか?
橋台は川の両岸にあって、橋梁とその両岸とを区分している。
つまり台座のようなものですね。
橋脚は、川の中央部に建っていて、橋を支えている。
つまり柱のようなものですね。
橋脚は、川の流れに晒されるから、橋を支えるだけではなくて、川の流れに抵抗しなければならない。
たとえば?
川の流れに逆らわないよう、断面の形を流線型に近くなるように工夫したり、間隔をなるべく広げて流れの邪魔にならないようにしなければならない。
富士川橋梁の橋脚はずいぶん立派ですね。
富士川は昔から暴れ川として知られるから、ほかの橋梁よりもひと回り大きな橋脚が建設された。
下り線を支えている、煉瓦の橋脚ですね。
1889(明治22)年に完成した橋脚を今でも使っている。
ええっ! もう百歳超えですか⁉
1914(大正3)年の水害で第8橋脚が、1982(昭和57)年の水害で第4橋脚が失われてしまったが、残りはまだまだ健在だ。
師匠も百歳めざして頑張ってくださいよ。
そこまで頑張れる自信はないがな。
大丈夫ですよ。何とかは世にはばかるそうですから。
コラ💢