明治時代の橋梁架設は、足場法と呼ばれる河床に木材で足場を組んで桁を架設する方法が一般的であった。しかし、増水によって足場が流失したり、山岳地では施工に困難が伴い、高所での危険な作業となるなど多くの問題を抱えていた。1913(大正2)年に、鉄道院大分建設事務所長であった那波(なわ)光雄(1869~1960:のち総裁官房研究所長、東京帝国大学教授など)は、日豊本線の建設工事で簡単な橋梁架設用の走行式クレーンを考案し、これを現場で試用して好成績をおさめた。
その後、那波は工務局設計課長となり、さらに改良した架設機の開発にあたった。そして、鉄道省大臣官房研究所技師の黒田武定(1888~1979)により、わが国最初の橋梁架設用操重車オソ10形(オソ10)が設計され、1920(大正9)年11月末に鉄道省浜松工場で完成した。オソ10形は、日豊南線(現在の日豊本線の一部)川南~高鍋間の小丸川(おまるがわ)橋梁の架設工事で初陣を飾り、1920(大正9)年12月16日に架設作業を開始して、翌年1月14日までに全35径間の桁架設を完了した。
鉄道省宮崎建設事務所が発行した開通記念の絵葉書には、「小丸川橋梁操重車ニテ径間七拾呎鉄桁架設ノ景」と題して、70フイート(約21m)の上路プレートガーダを吊り上げ、蒸気機関車の推進運転で桁架設を行うオソ10形操重車の姿がおさめられた。
その後、補剛トラスの形状をワーレン式とし、帆柱を梯子形から支柱形に変更するなどした改良型のオソ11~15の5両が増備されたが、オソ10形は1928(昭和3)年に実施された車両称号規程の改正でソ1形ソ1~6となった。6両の操重車は全国各地に配備され、建設現場の桁架設や、改良工事現場の桁交換で活躍したが、1960(昭和35)年以降に後継機としてソ200形、ソ300形が登場し、1970(昭和45)年までにすべて引退した。操重車による桁架設の技術は、国鉄東京操機工事事務所などに継承され、より安全で効率的な桁架設を実現した。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2013年5月号掲載)
Q&A
操重車は橋桁を架設するためだけに使うのですか?
操重車と呼ばれている車両には3種類があり、脱線した車両を持ち上げるための事故復旧用、レールを積卸す際に使用するレール積卸用、橋梁を架設するために用いる橋梁架設用があります。事故復旧用は、クレーン車をそのままレールの上に載せたような形をしているので、すぐにわかります。操重車は貨車の一種に区分されていましたが、現在では機械類の一種として扱われています。(小野田滋)
”小丸川橋梁(宮崎県高鍋町)”番外編
足場を設けずに素早く桁を架設できるなんて、スゴ技ですね。
クレーン車で橋を架けた例は外国でもあったようだが、操重車は日本独自の発想だ。
誰のアイデアですか?
本文にもあるが、那波(なわ)光雄という技術者だ。
何をした方ですか?
橋梁工学の専門家で、関西鉄道では揖斐川橋梁の架設工事や木津川橋梁の設計などを行って、そのあと京都帝国大学の助教授になった。
大学の先生になるくらいだから、学者みたいな方だったんですか?
ところが、6年ほどで九州鉄道の技師になって、鉄道国有化で鉄道院の中津建設事務所長、大分建設事務所長として日豊本線の建設現場の最高責任者となった。
そこで操重車のアイデアを思いついたんですね。
その後も、鉄道院の研究所長になって東京帝国大学の教授も兼務した。
二刀流ですね。
当時は、技術者、研究者とも人数が限られていたから、あちこちから引っぱりダコだった。
僕もドボ博の大谷選手をめざします。